パウル・フォン・ヒンデンブルク
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パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Beneckendorf und von Hindenburg, 1847年10月2日 - 1934年8月2日)はドイツの軍人、政治家。ヴァイマル共和国第2代大統領(在任:1925年-1934年)
西プロイセンのポーゼンの没落ユンカーに生まれる。8才で陸軍幼年学校にはいり、普墺戦争・普仏戦争に従軍。陸軍大学校を卒業後、参謀本部・陸軍省に勤務。一時、参謀総長の候補に挙げられたものの、結局1911年に退役。第一次世界大戦の勃発で現役復帰し、第8軍の司令官として東プロイセンに赴く。第8軍参謀長エーリッヒ・ルーデンドルフとともに、タンネンベルクの戦いでロシア軍に大勝利を収める。1916年8月には参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に就任する。実権はむしろ参謀次長(第一兵站総監,Erster Oberquartiermeister)のルーデンドルフが掌握した。1919年7月に再度軍役を退く。
1925年にブルジョア保守派の幅広い支持を得て、第2代ヴァイマル共和国大統領に選出される。この立候補には国防軍の慫慂があったと言われている。在任中はそれなりの安定をもたらしたが、任期後半には世界大恐慌における措置として大統領緊急権をしばしば行使した。 1932年アドルフ・ヒトラーを破り、大統領に再選を果たした。首相をパーペンおよびシュライヒャーと代えたが、ナチス勢力を抑えることはできず、政局の行き詰まりにより翌年33年1月ついにヒトラー内閣の任命に至った。
誇り高いプロシア軍人としての自負心から、高齢でありながら大統領に留まり続けた。政策決定は息子で陸軍将校のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領府官房長マイスナーら、もっぱら親しい仲間内でのお茶会でなされ、その独裁的な政治手法は大統領というよりドイツ皇帝により近かった。ヒトラーをボヘミアの伍長と軽蔑し毛嫌いしていたため、当初はヒトラー政権誕生を阻止すべく大統領として頑強に抵抗する。やがて、オスカーらの説得によりやむを得ずヒトラーを首相に指名した。
第一次世界大戦の英雄としてドイツ国民の熱烈な尊敬を集めており、首相になったヒトラーもヒンデンブルクには一貫して配慮を見せている。その死後、ヒトラーは、国民投票にて「大統領職」就任を認められるが、故ヒンデンブルクに敬意を表し、大統領と称せず、従来通りに Führer と呼ぶことを国民に求めた。ドイツ語では Führer und Reichskanzler と表記される。日本語ではこの翻訳に困り、中国語のヴァイマール共和国大統領の訳語である「共和国總統」をそのままに総統と訳した。
また、逸話で病に伏したヒンデンブルクのもとにヒトラーが見舞いに来た際、ヒトラーを『皇帝陛下』と呼んだという。もう既にヒトラーとかつてのヴィルヘルム2世との区別もつかないまでに衰弱していたとのことだが、これはヒトラーの威厳を確立するための作り話だともされている。なお、実際にヒンデンブルクは自分の死後に帝政を復活させる考えがあったらしく、遺言状を残す事でヴィルヘルム2世の嫡孫であるルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンを皇帝に即位させようとした。しかし、遺言状は握りつぶされ、帝政復古はなされなかった。