ハールーン・アッ=ラシード
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ハールーン=アッラシード(هارون الرشيد Hārūn al-Rashīd, 766年 - 809年)は、アッバース朝第5代カリフ(在位786年 - 809年)。 アッラシード・ビッラー・アブー・ジャアファル・ハールーン al-Rashīd bi-Allāh Abū Jaʻfar Hārūn が即位にあたっての名であるが、古くからこの「ハールーン=アッラシード」の通称で親しまれて来た。
その治世はアッバース朝の最盛期にあたり、『千夜一夜物語』などで全盛期のアッバース朝に君臨した帝王として語り継がれている。父はマハディー。母は南アラビアのイエメン出身の元女奴隷ハイズラーン。同母の兄にはハーディーがいる。他には、ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男ジャアファルに嫁いだ妹のアッバーサがいるが、同母かは不明。 正妃はマンスールの孫で従妹のズバイダ。子はアミーン(母はズバイダ)・マームーン(母はマラージル)・ムウタスィム(母はマーリダ)他多数。785年に即位した兄のハーディーは、即位わずか一年で謎の急死を遂げ ており、この死はハイズラーンが関与した暗殺だったという説がある。ペルシア人の官僚ヤフヤー・イブン=ハーリドの後見を受け、父の治世から若くして東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との戦いなどに参加、786年に20歳でカリフに即位した。即位後はヤフヤーが宰相(ワズィール)に就任し、ヤフヤーの二人の息子ファドルとジャアファルを始めとするバルマク家の者がハールーンの治世を支えた。
ハールーンは797年、803年、806年と三度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えた。この間、803年には権勢を握りすぎたバルマク家の追放を決意し、ヤフヤーとファドルを捕らえ、ジャアファルを処刑してバルマク家の財産を没収、カリフによる直接統治を開始した。
しかし対外的に絶頂を極めた影で、帝国の内部は地方の反乱に悩まされ、アッバース朝は分裂に向かい始めていた。さらに、バルマク家の追放後はカリフの側近の軍人たちが権力を握り始め、のちのマムルークによる支配体制の端緒が見られるなど、この時代はアッバース朝の統一とカリフの支配力が緩み始め、衰退の兆候があらわれた時期でもあった。
文化の面では学芸を奨励し、イスラム文化の黄金時代を準備した。
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