ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)
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ハインリヒ2世(Heinrich II, 973年5月6日 - 1024年7月13日)はドイツ王(在位:1002年 - 1024年)、神聖ローマ皇帝(在位:1014年 - 1024年)。ザクセン朝第5代の王。バイエルン大公ハインリヒ。ザクセン朝初代の王ハインリヒ1世の曾孫。
[編集] バイエルン大公のドイツ王即位
前王のオットー3世は、21歳で急逝した。生涯独身であったオットーに直系の後継者はおらず、各地の実力者が次の王座を狙った。こうした中、ハインリヒ1世の曾孫に当たるバイエルン公ハインリヒ(オットー2世と争ったバイエルン公ハインリヒの息子)が王位につき、ハインリヒ2世となった。ザクセン・ロートリンゲンなどの諸公はハインリヒ2世の王位を承認していなかったが、ハインリヒは諸公領を巡回し、改めて各地で王としての承認を得た。
[編集] 帝国教会体制の強化
ハインリヒ2世は、従来のザクセン朝の諸皇帝のように、ローマを中心とした古代ローマ帝国の復興を夢見たわけではなかった。だが、カール大帝以来の普遍的なキリスト教帝国を念頭として、神権的な帝国統治の強化が図られた。
帝権強化を推進する過程で、ザクセン・ロートリンゲンなど帝権を脅かす諸公の弱体化が図られ、諸公の権力を支えた荘園・私有修道院などが、皇帝の影響下にあった司教座教会へと委譲された。ザクセン朝当初より、帝国統治と教会組織の関連は指摘され、これを帝国教会体制(王国教会体制)などと称するが、彼の時代に、教会組織と帝国は一層結びつき、皇帝による教会人事の介入も顕著になった。
ハインリヒ2世は非常に敬虔な人物であり、当時、堕落が進んだ教会の現状を強く憂慮していた。教会人事への介入も、政治権力の介入という点で世俗化と表現できても、総じて聖職者として高潔・有徳な人物が推挙されていた。そういった観点からすれば、10世紀前半のフランスに成立したクリュニー修道院などで高まっていた、教会の粛正運動の延長上にあった。
しかし、より帝国と教会組織が結びつきを深めたことで、教会組織が完全に皇帝に掌握されるという懸念も、聖職者の間で起こっていく。ここに、後に顕在化する叙任権闘争の萌芽が見られるといえよう。
1024年、ハインリヒ2世は51歳で死去した。これをもってザクセン朝は断絶することとなる。