ネヴィル・チェンバレン
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在任期間: | 1937年5月28日-1940年5月10日 |
前首相: | スタンリー・ボールドウィン |
次首相: | ウィンストン・チャーチル |
生年月日: | 1869年 3月18日 |
出身地: | イングランド, バーミンガム |
所属政党: | 保守党 |
ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain 1869年3月18日 - 1940年11月9日) は、イギリスの政治家。首相(在任 1937年5月28日 - 1940年5月10日)。外相時代にロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンは異母兄。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 政治経歴
バーミンガム市長や植民地大臣などを歴任したジョゼフ・チェンバレンを父として生まれ、実業界で成功を収めた後、1915年には父同様バーミンガム市長となる。1918年に下院議員となり、1923年から1937年にかけて保健大臣、大蔵大臣などの要職を務めた。
[編集] イギリス首相
1937年に、スタンリー・ボールドウィンの後を受け、保守党党首、首相の座に就く。当時イギリスやフランスと軍事増強と領土の拡大を進めるドイツ、イタリアなどとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンがドイツのアドルフ・ヒトラーや、イタリアのムッソリーニ政権に対して取った宥和政策は1938年9月29日のミュンヘン協定で頂点に達した。結果的にはこれによって第二次世界大戦の開始が1年引き延ばされることになる。
一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として非難され、しばしば軍事的強硬策を正当化するための詭弁として用いられることがある。しかし、この平和追求を建前とする宥和政策とは裏腹に、チェンバレン政権下において、軍備増強、軍事産業拡大が著しく実行されていた事実を指摘し、ミュンヘン協定によってむしろイギリスがナチスに対抗する軍事力を整えるための時間を獲得したとの見方がある。
[編集] 失意の辞任
いずれにせよ、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻により、9月3日、チェンバレンも対独宣戦布告を決意、第二次世界大戦が勃発することとなる。その後、1940年4月のノルウェー作戦の失敗を追及され、同年5月10日、奇しくもドイツ軍のベネルクス3国侵攻の日に首相辞任に追い込まれる。なお、後継にはウィンストン・チャーチルが就任した。同年11月9日には胃癌により死亡。
ちなみに、外交官として度々イギリスに赴任していた(チェンバレン首相のときは駐イギリス特命全権大使だった)吉田茂と親交が深かったという説がある。
[編集] 関連項目
前党首: スタンリー・ボールドウィン |
イギリス保守党党首一覧 1937年-1940年 |
次党首: ウィンストン・チャーチル |
前首相: スタンリー・ボールドウィン |
イギリスの首相一覧 1937年-1940年 |
次首相: ウィンストン・チャーチル |