トロフィム・ルイセンコ
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トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(Трофи́м Дени́сович Лысе́нко, Trofim Denisovich Lysenko, 1898年9月26日-1976年11月20日)は、ソ連の農学者。
[編集] 略歴
ウクライナの農家に生まれる。キエフ農業専門学校を卒業し、1920年代の初めからキーロヴァバード農事試験場に勤務し、1930年にオデッサ遺伝淘汰学研究所に転勤、まもなく所長となる。1939年には全ソ連・アカデミー会員および農業アカデミー総裁をはじめとして多くの政治的要職を歴任した。1956年にルイセンコを支持していたスターリンへの批判が起こるとともに、彼の農政上の失敗も明らかとなり、農業アカデミー総裁を辞任したが、農業アカデミー会員と科学アカデミー会員にはとどまっている。1942年に公刊された著書『農業生物学 Агробиология』は主要論文を収録したもので、ほとんど毎年出る版ごとに、新しい論文を追加していた。
[編集] 業績
カホン科やマメ科の植物について春化(ヤロビザーチヤ)の研究をし、1929年に植物の段階発生説をたてた。遺伝の研究にすすみ、1935年から環境の操作により植物の遺伝性を後天的に変化させうることを主張、また1941年には接木雑種の成功を主張し、育種学者としてソ連農業に貢献したとされていた。現代生物学がヴァイスマンやモーガンの観念論に支配されていると強調し、これを改革してミチューリン生物学の方向を確立すると唱え、1948年以降ルイセンコの学説はソ連生物学界の公式見解として承認され、ニコライ・ヴァヴィロフなどの反対論者を追放するにいたった。しかし、アメリカやヨーロッパの学界ではその実験の確実性は疑われ、政治色に染まった遺伝学説であることを批判されていた。1962年から著しくなった勢力失墜とともにミチューリン主義などの用語も使われなくなった。
ソルジェニーツィンはレポート『収容所群島』の中でルイセンコの農政上の失敗について触れ、「1934年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子をまいた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、カビが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間も空地のままにおかれた。ルイセンコは雪が富農だと非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにもいかなかった。彼は農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった」と暴露している。