トラヤヌス
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マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス(ラテン語:Marcus Ulpius Nerva Traianus、53年9月18日-117年8月9日)は、ローマ帝国皇帝(在位、98年 - 117年)。五賢帝の二人目。属州出身者として初めてローマ皇帝位に就いた。発音はより正しくは「トライヤーヌス」である。
属州ヒスパニア(現スペイン)のイタリカの生まれ。当初は対ゲルマン人の最前線である属州ゲルマニアの総督を務めていた。97年にネルウァ帝の養子となり、翌98年に皇帝に即位した。
武人であり、アウグストゥス帝以来の防衛的政策に反して外征にも積極的であった。ドナウ川を越えてダキア(現ルーマニア)を征服し、一時アルメニアやメソポタミア地方も版図におさめるなど、トラヤヌスの治世中にローマ帝国の領土は最大に達した。これにより、ローマ帝国の版図は、東はアルメニアやメソポタミア、西はイベリア半島や北西アフリカ(現在のモロッコ付近)、南は北アフリカの地中海沿岸一帯からエジプト南部、北はブリテン島南部にまでおよんだ。ダキア遠征の始終は「トラヤヌス記念柱」と称される大理石の柱にレリーフとして刻まれ、現在にまで伝えられている。
内政においては、先代のネルウァと同様に元老院との協調につとめた。また、救貧制度の充実、税負担の軽減、公共事業の振興などの行政改革をおこなうなど、帝国の繁栄に尽力した。市内のフォルム・ロマヌム(現フォロ・ロマーノ)の付近に新たな広場(現フォロ・トライアノ)を造営し、レンガ立ての公設の市場(現メルカート・トライアノ)を設けて市民を入居させた。こうした一連の政策は、身分・貧富の違いをこえてローマ市民の共感を得るものであった。
これらの内政と外征に渡る功を称えて、元老院から「至高の皇帝 (Optimus Princeps)」 の称号が贈られた。この称号は、当時鋳造された貨幣にも刻まれている。
私生活においては女色よりも男色を好み、つねに逞しい若者の一群を随行させていたことでも知られているが、こうした性向は皇帝としての職務遂行を妨げるものではなかった。子をなさぬまま没し、皇帝位は養子にむかえていた従兄弟で同郷人のハドリアヌスが継承した。
[編集] 参考文献
次代皇帝 ハドリアヌス(117年 - 138年) |