ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)
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初代サマセット伯ジョン・ボーフォート (John Beaufort, 1st Earl of Somerset, 1371年頃 - 1410年3月16日)は百年戦争末期のイングランドの名門貴族ボーフォート家の始祖である。
[編集] 生い立ち
ジョン・ボーフォートは、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと愛人(後に結婚)キャサリン・スウィンフォードの間に生まれた4人兄弟の最初の子であった。王族のランカスター公の子ではあったが妾腹の子という出自から、彼の出生地であるフランスのアンジューのボーフォート城から姓をとって臣籍降下した。
後の1390年にランカスター公は甥のリチャード2世に働きかけて、ボーフォートの兄弟が私生児ではなく合法的な子である事を宣言させた。但しその条件として、後々の内紛を避けるために、ボーフォートの兄弟は王位継承権を持たないという但し書きが付けられた。この時の宣言は恐らく公式記録に残らない「私的談話」だったとらしく、ランカスター公は1397年1月に改めて同様の内容・条件で「議会宣言」の形で公表させている。この月の終わりに、恐らく子供達が嫡子と認められたためだろうが、これまで別々に暮らしてきたランカスター公とキャサリン・スウィンフォードは結婚している。
この議会宣言を契機にボーフォートは貴族として公式に認められる。だが後に栄進するボーフォート一族に対して敵意をむき出しにしたヨーク公リチャードとの争いが薔薇戦争に発展し、結局はボーフォートの子孫の1人がヘンリー7世として王位につくまで続いた事を考えると、この議会宣言がその後の大量の流血と破壊をもたらした原因とも言えよう。
[編集] イングランド貴族として
私生児から貴族として認められたジョン・ボーフォートは、瞬く間に立身出世を重ねていく。まず彼は1397年2月10日にサマセット伯に列せられた。またその年の9月28日にはマーガレット・ホランド (ケント伯トーマス・ホランドの娘) と結婚した。さらにその2日後にはドーセット侯に列せられた。おまけにその年のどこかでガーター勲章まで受勲しているのだ。
但し、さすがにこれは出世をし過ぎたという事で、異母兄弟のヘンリー4世がランカスター朝を開いた1399年に侯爵位からは降格させられている。その後彼はただの「サマセット伯」であった。
1404年の中で彼はイングランド武官長(Constable of England)であった。
サマセットは1410年3月16日に聖キャサリン病院(Hospital of St. Katherine-by-the-Tower)で亡くなった。遺体はカンタベリー大聖堂の聖マイケル礼拝堂に埋葬された。
彼には6人の子供がいた。
- ヘンリー・ボーフォート (第2代サマセット伯) (1401年頃 - 1418年11月25日)
- ジョン・ボーフォート (サマセット公) (1404年3月25日(洗礼) - 1444年5月27日)
- トーマス・ボーフォート (ペルシュ伯) (1405年頃 - 1432年)
- ジョウン・ボーフォート (1406年頃 - 1445年7月15日):スコットランド王ジェームズ1世と結婚した。
- エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公) (1406年頃 - 1455年5月22日)
- マーガレット・ボーフォート (1409年頃 - 1449年):トーマス・ドゥ・コートニー (デボン伯)と結婚している。
官職 | ||
先代: ヨーク公 |
シニック港長官 Lord Warden of the Cinque Ports 1398年 - 1399年 |
次代: トーマス・アーフィハム卿 |
先代: |
イングランド武官長 Constable of England 1404年 |
次代: |
爵位 | ||
先代: 新設 |
サマセット伯 1397年 - 1410年 |
次代: ヘンリー・ボーフォート |
先代: 新設 |
ドーセット侯 1397年 - 1399年 |
次代: 没収 |
カテゴリ: イングランド史の人物 | 1371年生 | 1410年没