ジョニー・キャッシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash, 1932年2月26日 - 2003年9月12日)は、アメリカ合衆国アーカンソー州出身のカントリー・ミュージック歌手・作曲家・ギタリスト。2003年に他界するまでに放ったヒット曲数は140曲以上。ヒットソングの最多売上曲数の世界記録はエルヴィス・プレスリーの151曲だが、それに迫る数字である。レコードとCDの累計売上がこれまでに5000万枚を記録しており、グラミー賞も11回受賞している。さらにロックンロールの殿堂、シンガーソングライターの殿堂、カントリーの殿堂に殿堂入りしており、ほかにも数々の受賞歴を持っている。いつも黒い服を着ており、"Man In Black"がニックネームだった。ロックンロールの反逆性と、カントリーの哀愁、フォークの語り口」といわれる独特の世界を持つ歌が特徴で、カントリー歌手のみならず、ポール・マッカートニーやリトル・リチャード、U2、ボブ・ディランなどから熱いリスペクトを受けている、アメリカ音楽史の重要なアイコン。
[編集] プロフィール
1932年、アーカンソー州に生まれる。一家はダイエスの失業救済局作業場で綿花を育て生計を立てており、彼も幼い頃から兄ジャックとともに家族の農業の手伝いをしていた。
1944年、ラジオで流れるカントリー曲に憧れ、このころからすでに曲作りを開始していたとされる。同年事故で兄をなくしており、父親は冷たく彼に「悪魔はできる子のほうを奪った。」と言い放ち、後年まで心の傷として深く突き刺さることとなる。当時兄ジャックと共に好んで聞いていたのはカーター・ファミリーで、そのメンバーでカーター家の次女のジューン・カーターはのちに彼の妻となった。
1950年7月、朝鮮戦争に空軍兵として徴兵され、西ドイツのランズブルクに駐屯。駐屯中に初めてギターを買い、独学で奏法を習得。曲作りも本格化する。
1954年、除隊され、帰国しテネシー州メンフィスに移り住む。同年8月に最初の妻ヴィヴィアン・リベルトと結婚。訪問販売員などをしながら地元の自動車整備工2人とバンドを結成。趣味の枠内で音楽活動を続ける。同年末にメンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」のメンフィス・レコーディング・サーヴィスでレコード作りを依頼、「製作料は20ドル」と聞かされた金欠のキャッシュは驚くが、プロデューサーに強引にオーディションのアポイントを取りつける。バンドと共にゴスペルを歌うものの評価されず、苦し紛れに歌った自作曲「フォルサム・プリズン・ブルース(Folsom Prison Blues)」により辛くも合格。因みにカントリー歌手になった後もキャッシュはゴスペルをしばしばライヴなどで歌っている。またサム・フィリップスとサン・レコードは当時すでにエルヴィス・プレスリー(1954年デビュー)やロイ・オービソンらを輩出しており、話題性のある非メジャー系レーベルであった。
1955年3月、サン・レコードからシングル「ヘイ・ポーター(Hey Poter)」を発売し、「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビュー。(バンドは後にメンバーを一人増やし、"テネシー3"としてキャッシュと共に活躍)ビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットに。(以下、ポップ・チャートも含め記録は全てビルボード誌による)
同年12月、シングル「フォルサム・プリズン・ブルース」を発売。カントリー・チャート4位の大ヒット。この頃のツアーでジューン・カーターと運命的な出会いを果たす。また3歳年下のエルヴィスともツアーで出会っているが、エルヴィスはすぐにメジャーのRCAレコード(現ビクター)に移籍している。低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。("Hello,I'm Johnny Cash.")」という舞台上の挨拶もこのころから確立される。
1956年4月、シングル「アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line)」を発売。初の6週連続一位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名を欲しいままにした。
1958年、大手のコロムビア・レコードと契約。
1963年、「リング・オブ・ファイア(Ring Of Fire)」がカントリー・チャート7週連続1位にランクイン。作曲はジューン・カーター。
1965年、違法薬物の一種アンタフェミンをメキシコ国境から持ちこもうとし、逮捕される。映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」の中では、キャッシュに最初に薬物をすすめたのは、エルヴィス・プレスリーから薬物を入手した彼のバンドマンだったとしている。このトラブルが元で妻ヴィヴィアンとも離婚。娘達も妻側に引き取られる。
1968年、ドラッグを乗り越え再起。刑務所の囚人からのファン・レターが多いことに気付いていた彼は、自分の歌で囚人を勇気づけようと、フォルサム刑務所でのライヴとライヴ盤収録を企画。このアルバム「アット・フォルサム・プリズン(At Folsom Prison)」は1月13日に録音され、同年6月に発売。カントリー・チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなり、翌年には初のグラミー賞も受賞しシーンに返り咲く。
1968年、オンタリオでのコンサートで演奏中にジューン・カーターに「君と結婚したい。今返事してくれないとこれ以上歌えない。」と電撃プロポーズ。後世に語られる伝説のプロポーズとなる。翌週二人はケンタッキー州で結婚。
1969年、TVで彼がMCを務める「ジョニー・キャッシュ・ショー」の放映が始まる。ゲストでボブ・ディランやニール・ヤング、リンダ・ロンシュタット、エリック・クラプトンら多数のミュージシャンが出演。同年、ディランと「北国の少女(Girl From The North Country)」をデュエットで録音し、発表。また、サン・クエンティン刑務所でのライヴ録音を行ったのもこの年である。
1970年4月、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに招かれ、ホワイトハウスで演奏。
1974年、TV刑事コロンボ第22話「白鳥の歌」に、妻を謀殺するミュージシャン役で出演。劇中にはキャッシュ自身のライブパフォーマンス映像が挿入され、話題となる。
1971年、ベトナム戦争への自らの意見を盛り込んだアルバム「マン・イン・ブラック(Man In Black)」を発表。カントリー・チャート1位。
1977年、第四回アメリカン・ミュージック・アウォーズで功労賞を受賞。
1985年、いずれもカントリー界の重鎮である、ウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングズ、クリス・クリストファーソンとともにスーパーバンド、「ハイウェイメン」を結成。アルバム、シングルともにチャート1位を独占し、音楽賞レースも総なめにした。
1993年、アイルランド出身のロックバンドU2のアルバム「ズーロッパ(ZOOROPA)」中の「ワンダラー(The Wanderer)」にゲスト参加。
1994年、気鋭プロデューサー、リック・ルービンによって本格的にソロ活動を再開。MTVでビデオクリップが集中オンエアされ、ロック世代の若者からのファンが急増。ちなみにルービンは他にエアロスミスやドノヴァンの復活にも貢献している。
2003年5月、最愛の妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で他界。同年7月のライヴ・パフォーマンスを最後に、自身も妻の後を追うように9月に他界。享年71。
2005年、彼を題材にしたジェームズ・マンゴールド監督映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道("Walk The Line")」が公開。批評家受けも上々で、第78回アカデミー賞5部門でノミネート、2部門で受賞したほか、数々の受賞歴を誇る。映画の公開に合わせ、ベスト盤である「レジェンド・オブ・ジョニー・キャッシュ(The Legend Of Johnny Cash)」や、映画出演者が吹き替えなしで歌唱に挑戦したサウンドトラックが全米チャート上位にランクインした。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | カントリー・ミュージシャン | アメリカ合衆国のギタリスト | ロックの殿堂 | 1932年生 | 2003年没