ジョイ・ディヴィジョン
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ジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)はイギリスのロックバンド。イングランド、マンチェスターにて結成。ポスト・パンクの代表的なバンドであり、ニューオーダーの前身のバンドでもある。
目次 |
[編集] メンバー
- イアン・カーティス (Ian Curtis)/ボーカル 1980年死去
- バーナード・アルブレヒト (Bernard Albrecht)/ギター、キーボード ※のちのバーナード・サムナー
- ピーター・フック (Peter Hook)/ベース
- スティーヴン・モリス (Stephen Morris)/ドラム
[編集] 概要
かねてからの友人同士であったバーナード・サムナーとピーター・フックは1976年6月4日金曜日にマンチェスターのフリー・トレード・ホールで行われたセックス・ピストルズのライブに衝撃を受けパンクロックバンドを結成することを決意、メンバーを募集する。程なくヴォーカルとしてイアン・カーティスが参加、ドラマーに関しては紆余曲折の末スティーヴン・モリスが担当することとなった。これがジョイ・ディヴィジョンの始まりである。
バンド名はスティーブンが参加する以前の極初期はスティフ・キトゥンズ(Stiff Kittens)としていたが、その後ワルシャワ(Warsaw)に変更、そして程なくジョイ・ディヴィジョンに変更された。その名はナチス・ドイツ時代の将校用の慰安所から取られたといわれている。
極初期のサウンドはいわゆるパンクロックであったが、次第にマーティン・ハネットによるサウンドプロデュースや、そして何よりイアンの作る絶望や孤独を歌う歌詞及びその歌唱により独自の音楽性を発揮。それが長い不況が続いていたイギリスのリスナー達に受け入れられ高い評価を得た。 だが、アメリカツアーを直前に控えた1980年5月18日の日曜日、突如イアン・カーティスは自宅で首を吊り自殺。その理由は今も明らかにされていない。
残されたメンバーたちはイアン抜きでアメリカのツアーを敢行。そしてその後ギター、バーナード・サムナーをボーカルにニューオーダーと名前を変え活動を継続することになる。
ニューオーダーは長らくジョイ・ディヴィジョン時代の曲をライブで演奏することはなかったが、活動再開後の1998年以降は積極的にジョイ・ディヴィジョンの曲を演奏するようになっている。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] オリジナルアルバム
- アンノウン・プレジャーズ(Unknown Pleasures)/1979年
- クローサー(Closer)/1980年
[編集] ベストアルバム、コンピレーション
- スティル (Still)/1981年 未発表音源集
- サブスタンス (Substance 1977-1980)/1988年 シングル集
- ベスト・オブ・ジョイ・ディヴィジョン (Permanent)/1995年 ベストアルバム
- ハート&ソウル (Heart And Soul)/2004年 未発表音源を含むCDボックス
- レット・ザ・ムーヴィー・ビギン (Let The Movie Begin)/2006年 ライヴ&アウトテイク集
[編集] ライブアルバム
- コンプリートBBCレコーディングス (The Complete BBC Recordings)/2000年
- ライヴ・イン・プレストン (PRESTON 28 FEBRUARY 1980)/1999年
[編集] 映像作品
- Here Are The Young Men/1982年 複数のコンサート映像及び「Love Will Tear Us Apart」のPVを収録
[編集] 映画
- 24アワー・パーティー・ピープル (24HOUR PARTY PEOPLE)/2002年 ジョイ・ディヴィジョンの所属していたファクトリー・レーベルの興亡を描く。物語前半はジョイ・ディヴィジョン、後半はハッピーマンデーズを中心に進められる。
- コントロール (Control)/2007年公開予定 イアン・カーティスの生涯を描く。監督は写真家として有名なアントン・コーヴィン。
[編集] 備考
件のセックス・ピストルズのライブの観客数はわずか42人であったが、その42人の中には
ファクトリー・レコードを設立したトニー・ウィルソン、
ジョイ・ディヴィジョンや初期のU2等をプロデュースしたマーティン・ハネット、
バズコックスのピート・シェリーとハワード・デヴォート、
ザ・フォールのマーク・E・スミス、
ザ・スミスのモリッシー、
シンプリー・レッドのミック・ハックネル等、後のイギリスのロック音楽界を牽引する面々が顔を揃えていた。