ジュディ・ガーランド
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ジュディー・ガーランド(Judy Garland,1922年6月10日 - 1969年6月22日)は、アメリカ合衆国ミネソタ州生まれの女優、歌手。本名はフランシス・エセル・ガム(Frances Ethel Gumm)。父親がボードビリアン、母親がピアニストの家庭で3人姉妹の末っ子として生まれる。芸名の「ジュディ」は彼女が好きだった歌のタイトルから。「ガーランド」は、あるボードビリアンが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪の意味)のようだ」と言ったことから付けたと言われている。
女優のライザ・ミネリは、2度目の夫、ヴィンセント・ミネリとの子。同じく女優のローナ・ラフトは、3度目の夫であるシド・ラフトとの子。
1969年に睡眠薬の過剰服用により死亡した。
2006年6月10日、米郵政公社(US Postal Service)は、ジュディの肖像画をデザインした記念切手を発売した。
[編集] その生涯
1929年 子役としてデビュー。1935年 MGMと専属契約。1939年 「オズの魔法使」の主役でアカデミー特別賞(Academy Juvenile Award)を受賞。
彼女の人気を不動のものにした「オズの魔法使」は、最初人気子役だったシャーリー・テンプルが主役のドロシー役を演じるはずだったが、テンプルの出演について映画会社間でトラブルになったため、急遽ジュディ・ガーランドが演じることになった。だが「オズの魔法使」が余りにも人気になったため、彼女のスケジュールはいっぱいとなってしまい、この映画の公開直後から睡眠薬を服用し、睡眠薬中毒となってしまう。神経症と薬物中毒による精神の不安定が仕事にも影響するようになり、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返し、映画「アニーよ銃をとれ」の撮影中に倒れてしまい、アニー役から下ろされ、1950年の「Summer Stock」(日本では劇場公開されず)を最後にMGMを解雇されることとなる。ショックを受けた彼女は自殺未遂事件を起こし、翌年にヴィンセント・ミネリと離婚。1952年、シド・ラフトと3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークの舞台活動に拠点を移す。結果としてこれが成功し、ジュディの歌唱力は人々に再認識される。
1954年には再び銀幕に復帰し「スタア誕生」でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされる。しかし、前評判を覆す形でグレース・ケリーに敗れ、獲得はならなかった。彼女の私生活は再び荒れ始め、数度の自殺未遂を起こす。銀幕からも去り、コンサートやショウの分野で活動するようになる。1961年、彼女は7年ぶりに銀幕に復活。「ニュールンベルク裁判」でバート・ランカスターやマレーネ・ディートリッヒと共演し衰えない演技力を見せた。この作品でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。また同年行ったカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する。
だがその後、薬物中毒と神経症は悪化。1963年を最後に銀幕から姿を消し、1965年にはシド・ラフトとも離婚。その後、2度結婚、結果として生涯に5回結婚した。1969年に睡眠薬の過剰摂取で死去した際、彼女と「オズの魔法使」で共演した一人の俳優は「もう彼女は疲れてしまったのだ」とコメントし、2度目の夫ヴィンセント・ミネリとの間に生まれた長女ライザ・ミネリは「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、事実ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地に埋葬した。
[編集] 主な出演作
- 1935年 - サンタバーバラ祭
- 1938年 - 初恋合戦
- 1939年 - オズの魔法使、ミュージカル 青春一座
- 1941年 - 二人の青春
- 1942年 - ブロードウェイ
- 1943年 - ガール・クレイジー
- 1944年 - 若草の頃
- 1948年 - イースター・パレード
- 1950年 - サマーストック
- 1954年 - スタア誕生
- 1961年 - ニュールンベルグ裁判
- 1963年 - 愛の奇跡、私は歌い続けた
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