シャマシュ・シュム・ウキン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャマシュ・シュム・ウキン(Shamash shum ukin、生年未詳 - 紀元前648年)は新アッシリア王国時代のアッシリア支配下におけるバビロニア王である。アッシュールバニパルとアッシリア王位を巡って戦ったが敗死した。
[編集] 来歴
アッシリア王エサルハドンの息子として生まれた。エサルハドンの長子シン・イディナ・アパラが紀元前672年に死去していたために、アッシュールバニパルが上位者たるアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王としてそれぞれ即位する事となったが、恐らくシャマシュ・シュム・ウキンの方が兄であり、弟であるアッシュールバニパルがアッシリア王に付くに至った経緯は完全には明らかではないが、エサルハドンの生母ナキア(ザクトゥ)の策動があった事が知られる。
こうしてエサルハドンの死後の紀元前670年に、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロニア王位についたが、名目上は王でありながら実際にはアッシリア王アッシュールバニパルの臣下に過ぎない状態には不満を募らせていたと思われる。アッシュールバニパルより即位が1年遅いのも、彼によってバビロニア王に任命されるという形式をとった事による。エサルハドンの死後10年以上にわたってその状態を甘受していたが、紀元前652年にアッシュールバニパルに対し反乱を起こした。なぜ反乱がこの時であったのかは分かっていない。この反乱にはエラムや海の国の首長ナブー・ベール・シュマティ等も加わった。
しかしアッシュールバニパルはアッシリアに持ち去られていたマルドゥク神像をバビロニアに返還していた他、南部バビロニアの都市に懐柔工作を取っており、シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こすとウルをはじめ南部バビロニアの諸都市はアッシュールバニパル側に寝返った。
650年までにバビロニアの主だった都市はアッシュールバニパルに奪われ、バビロンも包囲された。シャマシュ・シュム・ウキンは2年にわたって包囲に耐えたが、食料の欠乏のため(城内で食人が行われたと言う)紀元前648年にバビロンは陥落し、彼も戦死した。一説には宮殿に火を放って自殺したとも言われる。