シャイフ・アフマド
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シャイフ・アフマド(シャイク・アフマドとも、เฉกอะหมัด、1542年 - ?)はアユタヤ王朝(現在のタイ王国)時代の官吏。プラーサートトーン王に仕えた。山田長政で有名なアユタヤの日本人傭兵隊を駆逐した人物として知られ、また山田長政、コンスタンティン・フォールコンなどと共に、後期アユタヤ王朝の外国人官吏の代表格としても知られる。
[編集] 人物伝
シャイフ・アフマドはアラビア半島出身と伝えられる。エーカートッサロット王時代に渡タイし、ソンタム王の時代までに貿易で富を得て、プラヤー・チェークアマットラーチャセーティーの官位・欽錫名を与えられ、大蔵省右外務部(アラビア人、ペルシャ人、マレー人、インド人などの貿易商の管理をする部局)を任された。のちに、当時台頭していた日本人勢力を牽制するため中外務部(右外務部、及び中国、ヴェトナム以外の貿易商を管理する部局)も兼任した。1630年、アユタヤで起こった日本人傭兵隊による王宮反乱未遂事件では、プラーサートトーンの命令を受け、プラヤー・マハーアンマートらと共にタイ族、アラビア人、華僑、を集め、日本人町を襲撃し日本人勢力を駆逐した。この功により、プラヤー・チェークアマットラッタナーティボーディーの官位・欽錫名を与えられた。
[編集] 子孫
シャイフ・アフマドはタイ人と結婚し子供を3人もうけている。その長男チューンは後に仕官し、同じく右外交部に勤めている。その後チューン以下六代の子孫は、アユタヤ王家と通婚を繰り返した。チャクリー王朝に至っては、分家が生じ、ブンナーク家、チェーム家、ブンマー家、ケーオ家、ノーイ家の5家に分離。うちブンナーク家はチャクリー改革までに、チャクリー家と通婚を繰り返し王の承諾を得ずに副王(ウパラージャ)を承認するなど、王を上回る権力を確立した。チャクリー家とはチャクリー改革以降離れたが、一方で名家として有力者らと通婚を繰り返し、ラーマ6世の名字法以降は、ブンナークを名字としたため、ブンナークを名乗る人物が多数現れた。現在ブンナークはタイで一番多くの人口を抱える名字である。