ケイ康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嵆康(嵇康、けいこう、ピンイン:Xī Kāng(Jí Kāng)、224年-263年)は、三国時代の魏の文人。字は叔夜。譙国銍(現在の安徽省宿州市)の人。子に嵆紹がいる。
[編集] 略伝
竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。曹操の孫娘を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。
非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。また気心の知れた少数の人々と清談という哲学論議を交わした。琴を演奏することを好み、「琴賦」(『文選』所収)を作ったり、謎の人物から学んだという広陵散と呼ばれる琴の曲を得意とするなど、音楽理論に精通していた。
官界に入っても名利を求めず、それまで通りの生活を送ったが、のちに友人の呂安が礼法違反事件を起こしたとき彼を弁護したため、かねてから彼の言説を危険視していた司馬昭の側近鍾会の讒言にあい、死罪となった。
主な著作に『養生論』『釈私論』『声無哀楽論』、詩の連作に「幽憤詩」がある。