キム・フィルビー
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キム・フィルビー(Kim Filbi;1912年1月1日 - 1988年5月11日)は、イギリス、ソ連の職業的諜報員。元MI6長官候補。傑出した二重スパイ、ケンブリッジ5人組の1人。正しい名前は、ハロルド(Harold)であり、キムの名前は、キプリングの小説の主人公にちなむ。
英領インドのアンバラに生まれる。1929年、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学。当時、多くの学生がマルクス主義にかぶれたが、キムも例外ではなかった。ケンブリッジ時代に、フィルビーと彼の友人達(アントニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン)はソビエト諜報部に徴募されたものと考えられている。後に、フィルビーは、ソビエトのエージェントとなることに一秒の迷いもなく、大きな名誉だと回想している。
1933年、キムは、欧州諸国を歴訪した。ウィーンでは、コミンテルンと社会主義地下組織間の連絡員となった。ここで、共産主義者のアリス・フリードマンと結婚し、オーストリアとハンガリー間を行き来した。暫く後に帰国し、自由主義的な雑誌「レビュー・オブ・レビュース」の編集長となり、「英独同胞」組織の依頼により、ソ連にとって価値ある情報を出版し始めた。
スペイン内戦時、フィルビーは、「タイムズ」の記者として、フランコ軍の本部で働いた。1940年までに、バージェスの助けでMI6に入り、防諜課ピレネー班を率いた。1944年、MI6の課長となり、ソビエト諜報部対策に従事した。このようにして、MI6の全作戦計画は、適時にソ連に流れるようになった。彼は非常に警戒深く行動し、何ら疑われることなく、勲章すら受章した。1945年、ソ連の駐イスタンブール外交官、実際には諜報員であるヴォルコフがイギリスへの亡命を申し出た。フィルビーは、ヴォルコフを個人的に尋問すると称して、直ちにイスタンブールに向かった。その結果、ソ連はヴォルコフを奪還し、飛行機でトルコから連れ出した。
1947年、駐イスタンブール英大使館一等書記官に任命され、在トルコ米空軍基地の情報をソ連に引き渡した。2年後、ワシントンD.C.に赴任し、米英諜報機関の活動を保障することとなった。間もなく、英大使館二等書記官に任命されたバージェスも、ワシントンにやって来た。
1951年初め、フィルビーは、CIAとMI5がフクス及びローゼンバーグ事件の捜査中にバージェスとマクリーンに疑いを持ったことを知った。彼は、友人達に容疑について知らせた。バージェスは、召還を早めるために、意図的に交通違反を繰り返した。帰国後、5月25日、彼らは、フランス、プラハを経由して、モスクワに亡命した。
フィルビー自身も、バージェスとマクリーンに警告したことで嫌疑がかけられ、ロンドンに召還された。しかしながら、証拠不十分のため、MI6から一時的に罷免されただけで、2つの新聞社の記者として、ベイルートで働き始めた。
1954年、ソ連の亡命者、V.ペトロフが、1951年初めにマクリーンがロンドンで秘密文書をKGBのエージェントに手渡すのを見たとMI6職員に伝えた。しかしながら、バージェスとマクリーンは、スパイ活動への関与を否定し、記者会見において、亡命の動機はマルクス主義の信奉のみだと表明した。
1962年末、亡命者A.ゴリツィンの証言後、フィルビーへの疑いは強まり、ベイルートで再三尋問され、スパイ活動を間接的に認めた。1963年1月23日、フィルビーは、ソビエトの汽船でベイルートからオデッサに向かった。同年7月1日、「イズヴェスチヤ」紙は、フィルビーがソ連政府に亡命を要請したと報道した。その後、彼はKGBにおいて、英国担当顧問として働いた。1965年に赤旗勲章、1970年に「名誉称号」勲章、1980年にレーニン勲章を授与。1988年、死去。