エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)
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ウォリック伯エドワード・プランタジネット(Edward Plantagenet, Earl of Warwick, 1475年2月25日 - 1499年11月28日)は、クラレンス公ジョージの息子。イングランド王リチャード3世 (1483年-1485年) ・ヘンリー7世 (1485年-1509年)の統治下では王位継承権も持っていた。ソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポールの末弟でもある。
1475年2月25日、彼は母イザベル・ネヴィル(『キング・メーカー』とも呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルの上の娘)の実家で生まれた。彼は父クラレンス公が反逆によって私権を剥奪され、処刑されたすぐ後の1478年にウォリック伯に叙された。
1483年に従兄ヨーク公がエドワード5世として即位した。本来であればウォリックが王位継承者になるはずであったが、クラレンス公が私権剥奪状態であった事を根拠に、継承者から除外された(国会制定法によって覆す事は可能だったはずだが)。
続いて即位したリチャード3世の1人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが1484年に急死すると、10歳のウォリックは王位継承者に指名された。これは王妃アン・ネヴィル(ウォリックの叔母であり、両親の死後ウォリックと姉のマーガレットを養子にしていた)の影響のおかげと言われている。
しかし1485年にアン王妃が死ぬとすぐに、リチャードは姉エリザベス・オブ・ヨークの息子で、既に成人に達しているリンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポールをウォリックの代わりの王位継承者に指名した。この経緯について、アメリカの歴史家ポール・マーレー・ケンダルは1955年に、「ウォリックは(中略)今で言う『知恵遅れ』の少年だったと思われる」と論じている。また、英国の歴史家ジェレミー・ポッターは1983年にそれまでの歴史家の結論に基づいて、「ウォリックは(中略)単純志向であったかもしれない:後に彼は『ガチョウと鶏を区別する事もできない』と言われた。」としている。恐らくリチャードは、息子を亡くして1年も経っていない失意の王妃を喜ばせるために、あくまで一時的な処置としてエドワードを王位継承者に指命したものと思われる。
1485年にリチャード3世を倒してテューダー朝のヘンリー7世が即位すると、ウォリックはロンドン塔に投獄された。この時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、ヨーク派の後継者として王位継承権をもつウォリックは厳しくマークされたのである。特に、1487年にランバート・シムネルがウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁される事となった。
1490年には父親の私権剥奪にも関わらず、ウォリック伯の称号を許された。但し、相変わらずロンドン塔に収監された状態である。この状態は1499年に、ヘンリー7世に反旗を翻したパーキン・ウォーベックがロンドン塔に投獄されるまで続く。ウォリックとパーキンは脱獄を謀るが失敗、両名とも反逆罪として絞首刑に処された。
爵位 | ||
先代: ジョージ・プランタジネット |
ウォリック伯 1478年-1499年 |
次代: 消滅 |
先代: リチャード・ネヴィル |
ソールズベリー伯 1485年-1499年 (消滅) |
次代: マーガレット・プランタジネット (1513年 復興) |