アーサー・ウェイリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーサー・ウェイリー(Arthur David Waley, 1889年8月19日 - 1966年6月27日)は、イギリスの東洋学者。
目次 |
[編集] 概要
1910年、ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業するも、病気療養のため進学を断念。 その後の1913年より大英博物館に勤務する。当時、日本語の辞書を含む資料等が入手困難な時代に日本語と中国語を独学で習得し数々の翻訳を行なった。特に1921年~1933年に6巻に分けて出版された『The Tale of Genji』(源氏物語)の翻訳者として知られる。同書はタイムズ紙文芸付録で詳細な批評が掲載されるなど多大な影響を及ぼし、日本文学研究およびその後の翻訳ブームの火付け役とされる。今でも"The Tale of Genji"は英語圏で読まれており、ウェイリーは日本語古典および中国語古典研究の権威とされている。
[編集] 著作
『The Tale of Genji』以外にも、1919年に『Japanese Poetry,The 'Uta'』(日本の詩、歌)((万葉集、古今和歌集))、1921年に『The No Plays of Japan』(日本の能)((敦盛ほか))、1928年に『The Pillow Book of Sei Shonagon』(清少納言の枕草子)他多数。また、中国古典からは『The Book of Songs』(詩経)、『The Way and Its Power』(老子の道徳経)、『The Analects of Confucius』(孔子の論語)、『Monkey』(西遊記)、『The Poetry and Career of Li Po』(李白)他多数を英訳した。
[編集] 源氏物語
アーサー・ウェイリー訳の"The Tale of Genji"は、抄訳であり欧米人に理解しやすいよう原書にない説明を入れるなど工夫が見られる。そのため、「自由すぎる翻訳」「原作に忠実でない」と批判がある一方「原作より面白いのではないか」「原作を離れ、別の(素晴らしい)世界を構築している」と評する人物さえいる。当時タイムズ紙が「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に紫式部の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績とも言える。また、同書に触発され日本研究を志した学者も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの著作「The No Plays of Japan」を読みはじめて能に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお"The Tale of Genji"はその後、イタリア語、ドイツ語、フランス語などに二次翻訳された。現在、在日外国人記者などが来日前に上司に勧められる書とも言われ、日本を理解する必読の一冊とされる。
[編集] 影響
ドナルド・キーンがウェイリー訳の"The Tale of Genji"を読み「源氏物語がもたらした光明が忘れられぬ」と語っている他、日本研究家・中国研究家、翻訳家、文壇、文化人らに多数影響を与えた。音楽の世界においてはビートルズのメンバー(当時)だったジョージ・ハリスンの「The Innner Light」がウェイリー訳老子道徳経の一節(第四七章)からの引用であるとの指摘もある。また、他の音楽家においても、コンスタント・ランバートが李白の詩を元に作曲し、マーチン・ダルビーがウェイリー訳に基づいて中国(風の)曲を作曲した。その他、直接か間接的な影響かは不明ながらコルネリウス・カーデューが孔子の詩に曲付けを試みるなど、世代に関係なく様々な影響を西洋にもたらしたとされる。
[編集] 研究対象としてのウェイリー
ウェイリーの翻訳が多数の西洋人の心を掴んだ事から、比較文学の研究対象とされ、源氏物語の原典とウェイリー訳の加筆・省略・表現などを比較研究もある。また、ウェイリー自身を研究対象とすることもあり、近年平川祐弘が取り組んでいる。 またウェイリーは女性関係が複雑で、その生涯も興味の対象となっている。特に人妻で、晩年結婚したアリスンと、謎めいた女ベリルとの三角関係は、ウェイリー死後に出たアリスン・ウェイリーの『ブルームズベリーの恋』(河出書房新社、1992)に詳しい。また評伝として宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男--アーサー・ウェイリー伝』(新潮社、1993)がある。
[編集] 人となり
天才型の奇人である。ラフカディオ・ハーンに対して「日本を理解していない」と批判し、阿倍仲麻呂の和歌について漢文で書かれた後に和歌に翻訳された可能性を指摘するなど、東洋語に通じていたが、現代日本語は操れなかった。イギリスより叙勲された際に喜んだ形跡がなかった事から、名誉にも無頓着であったと思われる。なお、来日しなかったのは「日本に幻滅したく無かったからだ」との憶測が語られているが、単に長旅が嫌いだったとの関係者の証言がある。なお、ウェイリーが訳した『老子道徳経』の第四七章には「戸を出でずして天下を知り、ようを窺わずして、天道を見る」との一節があり、自ら訳した老子道徳経を実践したのかもしれない。