アンドロニコス1世コムネノス
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アンドロニコス1世コムネノス(Andronikos I Komnenos ギリシャ語表記:Ανδρόνικος Α' Κομνηνός 1123年-1185年9月12日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝(在位:1183年-1185年)。マヌエル1世コムネノスの従兄弟に当たる。
子供時代はマヌエル1世と親しかったが、長じるにつれて2人は対立し、アンドロニコスはエルサレム王国などの諸国を流浪する生活を送る。
1180年、マヌエル1世が没してその子のアレクシオス2世コムネノスが後を継いだが、12歳という幼年であったため、政務は摂政となった生母のマリアが取り仕切ることとなった。しかしマリアは夫のマヌエル1世と同じく親ラテン政策を採用したため、国民の間から不満が高まるようになり、この不満を背景にしたアンドロニコス1世は1182年、クーデターを起こしてマリアを殺害し、翌1183年にはアレクシオス2世の共同皇帝となった。しかし実質的には、アンドロニコス1世が帝国の実権を掌握することとなったのである。共同皇帝となってから2ヶ月後に、アレクシオス2世はアンドロニコス1世によって殺害され、アンドロニコスが正皇帝に即位。アレクシオスの后だったフランス王女アンナ(アニェス)を無理やり皇后とした。まだ10代だったアンナは、亡きアレクシオスを夢に見てベッドで泣き崩れる日々を送ったという。
アンドロニコス1世はマヌエルの死後衰退しつつあった東ローマ帝国を立て直すために、積極的な国政改革を行なった。官職売買の禁止、汚職の摘発、課税の減免、貧民の保護などがそれである。この改革は当初は国民層に大いに支持されたが、貴族層や大地主層の反発を招くこととなり、また先帝を殺しているという経緯もあって、次第にアンドロニコス1世は改革を強圧的に行なうようになってしまった。しまいには役人に「不正をやめるか、生きるのをやめるか(処刑されるか)を選べ」と言ったり、「余の子孫の害にならない商人や職人などを残して、全て殺してしまおう」とうそぶいて恐怖政治を敷くまでになってしまった。この結果、有能な人材は失われ、アンドロニコスは国民の支持を失ってしまうようになる。
対外においてもハンガリー王国のベーラ3世やセルビア王国のステファン・ネマニャ、さらには両シチリア王国のグリエルモ2世らの侵攻に遭って、キプロスやバルカン半島の領土を失ってゆく。
このように内では強圧かつ弾圧的な政治、外では領土の失陥などを繰り返した結果、国民の不満は増大。1185年にノルマン人がバルカン半島へ侵入して都へ迫ると、パニック状態になった首都市民や貴族は怒ってイサキオス2世アンゲロスを立てて反乱を起こし、アンドロニコス1世は在位わずか2年で廃位された上、首都の市民達になぶり殺しにされてしまったのである。
皇帝としての力量はあったが、即位の経緯や先々帝からの負の遺産を受け継いだことが、アンドロニコス1世の改革を失敗させてしまった原因とも言えるであろう。なお、アンドロニコス1世の孫に当たるアレクシオス1世(アレクシオス・コムネノス)は東ローマ帝国がいったん滅亡した後の1204年4月、コムネノス王朝の後継王朝としてトレビゾンド帝国を建国している。
東ローマ帝国コムネノス王朝 | ||
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次代 イサキオス2世アンゲロス |