アレッサンドロ・マンゾーニ
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アレッサンドロ・フランチェスコ・トマソ・アントニオ・マンゾーニ (Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni, 1785年3月7日-1873年5月22日)はイタリアの詩人、作家。啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアの孫にあたる。
[編集] 生涯
ミラノの伯爵家に生まれる。1805年に母とともにパリに赴きそこでヴォルテールと文学者フォリエルの影響を受ける。1808年に銀行家の娘と結婚し、ともにカトリックに改宗。この合理主義・無神論からの回心(Conversione)は、以後のマンゾーニの行動と思想を決定したといわれる。1814年からミラノに住み、1840年にはマジョーレ湖畔のレーザ(Lesa)に移り著作に専念した。1848年ミラノに起こった対オーストリア蜂起市街戦には息子をバリケードにおくって励まし、イタリア各君主に対してミラノ救援を呼びかけている。1860年にイタリア王国が成立したときに上院議員となる。
[編集] 作品と作風
はじめは古典的な詩を作ったがやがてロマン主義に転じ、高雅な言葉でキリスト教徒としての心情を歌った詩『聖なる讃歌 Inni sacri』『La resurrezione』『Pentecoste』などを書いた。またナポレオンを悼んだ詩『五月五日 Il cinque maggio』(1821年)はゲーテによってドイツ語に翻訳された。悲劇『カルマニョーラ伯 Il Conte di Carmagnola』『アデルキ Adelchi』は部分的な美しさをもつが舞台向きではない。主著は歴史小説『婚約者 I promessi sposi』3巻(1825-26年)である。
1823年『ロマン主義について』を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して「意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ」を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作『婚約者』によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。