アル・ジャバルティー
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アル・ジャバルティー(Al - Jabarti、1754年-1825年)は、エジプトの歴史家。本名は、アブドゥルラフマーン・ブン・ハサン・アルジャバルティー。
エジプトカイロに生まれ、家柄はアズハル学院のシャイフ職を代々務めた、ウラマーの名門であった。父は、イスラム諸学の他に数学・天文学・暦法・書道・度量衡を修めた当代きっての学者であったという。アル・ジャバルティー自身、裕福な商人でもあり、その地位からカイロにおける政界・官界に幅広い人脈をもっていた。
1798年、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征のさいに彼は40代の初めであり、アブヤールに隠退していたのを特に招かれ、他の名士とともにディーワン(参政府、諮問委員会)の一員となり、重要な役割を果たした。
1805年、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をアズハル学院の長老たちが願い出るが、ムハンマドの残忍性を憎むアル・ジャバルティーは、その請願書への署名を拒否する。彼の歴史書『伝記と歴史における事績の驚くべきこと』では、19世紀初めまでのエジプト近代が扱われ、ムハンマド・アリーやナポレオンについての事実を忠実に記録し、彼らの行為をイスラムの伝統・価値観に照らして批判した。そのため、エジプト総督に迫害され、1822年6月には、彼がムハンマドの手先に暗殺されたという噂まで流れ、長らく刊行されず、その一部が発表されたのは1878年「アレキサンドリア」の新聞紙上であった。アル・ジャバルティーの歴史書としては『フランス王朝の撤退における神意の顕現』があり、この書も長く禁書とされ陽の目を見たのはナセル政権下の1958-59年であった。『ボナパルトのエジプト侵略』(1989年、ごとう書房)という題で一部が邦訳されている。
アル・ジャバルティーは、マムルーク朝の歴史家イブン=イヤース以来とだえていた、編年体形式によるイスラム年代記の伝統を復活した。 彼は自己主張を歴史にこめたわけではなく、伝統文化を護持しようとしたために、かえって改革や失政に対する冷静な批判精神を保つことができたと思われる。 そのことをイギリスの文明史家アーノルド・J・トインビーは高く評価し、アル・ジャバルティーを〈指導的歴史家〉の一人として数えている。