アフマド・シャー・マスード
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アフマド・シャー・マスード(Ahmed Shah Massoud, 1953年 - 2001年9月9日。ダリー語:احمد شاه مسعود (Ahmad Shāh Mas'ūd))は、アフガニスタンのムジャーヒディーン司令官で、北部同盟の軍部指導者の一人であった。タジク人。妻帯、1男4女を有する。英語とフランス語を自由に操る。
弟のアフマド・ジヤ・マスードは、北部同盟の外交官を務め、2004年12月7日、ハーミド・カルザイ大統領と共に副大統領に選出された。
[編集] 人物
綱紀やイスラムの教えに厳格だったが、その人柄と軍事的才能から、北部同盟の兵士達には強い信頼を得ていた。
インタビューではアフガニスタンでの戦乱を平和的な会話によって解決し、民主的な政権が誕生することを望む発言をしている。
また、1996年のタリバーンによる首都カブール包囲の際には、これ以上首都や民衆に被害を及ぼす訳にはいかないとし、撤退している。
[編集] 経歴
王国軍大佐の家庭に生まれる。フランス語で教育が行われたカブールの貴族高等中学校「イスチクリャリ」で学んだ。カブール工業大学工学部を卒業。1973年のクーデター時、新政権側の弾圧を恐れてパキスタンに移住した。
ブルハーヌッディーン・ラッバーニーがイスラム主義を掲げる政党「イスラム協会」を設立するとそのメンバーとなり、以後も一貫してラッバーニー派として活動する。
1975年、帰国してパンジシール渓谷に本拠地を築き、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後は、反ソ連軍ゲリラの司令官となり、「パンジシールの獅子」として恐れられた。
1988年7月、マスードは、ソ連軍捕虜を自発的に解放し、ソ連軍の撤退を妨害しないことを約束した。このことは、マスードに対するソ連側の心象を良くし、後にロシアが北部同盟を支援する動機ともなった。
1992年にムジャーヒディーン勢力が首都カブールを占領し、ラッバーニー政権が誕生すると、そのもとで国防相、政府軍司令官を勤めた。その後、ラッバーニー政権が崩壊しターリバーンが勢力を拡大すると、ターリバーンに対抗する勢力が結集した北部同盟の副大統領、軍総司令官、国防相となった。ターリバーンがアフガニスタンを支配すると、北部同盟の勢力圏はアフガニスタン北部山岳地帯に限られたが、領土としてはアフガニスタンの約10%、人口としては30%程度を掌握していた。
2001年9月9日、自爆テロによって暗殺された。2001年9月9日といえば、アメリカ同時多発テロ事件の二日前であり、多くの人が二つのテロの関連性を疑っている。日本国内でも9月11日朝の時点で暗殺死亡説が報道され、アフガニスタンの政情の流動化を案じる者が居たが、同日のアメリカ同時多発テロ事件は誰しも予測していなかったに違いない。暗殺者はアラブ系の二人で、モロッコ出身のベルギー人とされたが、後に旅券は盗まれたものであることが判明。北部同盟の主要メンバーを狙ってジャーナリストを装っていたとされている。実際の攻撃は、暗殺者の一人が持っていたビデオカメラかベルトかに隠していた爆弾を爆発させたものとみられる。
9月13日まで、死亡説は公には否定され続けていたがおそらく攻撃から30分以内に死んだと推測されている。暗殺者の一人は爆発によって死亡し、一人は逃亡中に射殺された。
フランスの諜報機関DGSEが2003年10月16日に明らかにしたところによると、マスード暗殺に使われたカメラは、2000年12月フランスグルノーブルでクリスマスのショーウィンドーを撮影中の写真ジャーナリストのJean-Pierre Vincendetから盗まれたもの。FBIとDGSEはカメラの製造番号を追跡し、同一のカメラであることを確認したとされる。
アフガニスタン暫定政権発足式典では、壇上に大きな遺影が掲げられた。
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