わび茶
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わび茶(わびちゃ、侘茶、侘び茶)は、狭義には茶の湯の一様式。書院における豪華な茶の湯に対し、四畳半以下の茶室を用いた簡素な茶の湯を指す。また広義には、千利休系統の茶道全体を指す。ただし「わび茶」という言葉が出来るのは江戸時代であり、利休のなきあとに彼らの追及した茶の湯のことを「侘び茶」と名付けたのである。利休時代は「侘数寄」「わび数寄」と呼ばれたという説もあるが、この語はほとんどの場合「侘び茶人」、つまり「名物を持たず、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ」で茶の湯を楽しむ茶人のことを指していたから、この時期、利休たちの茶を他と区別する語はなかったと考えるべきである。なお元禄時代ごろ成立の「南方録」には「わび茶」と同義と思われる「侘茶湯」という語が見える。
[編集] 歴史
室町時代後期、日本では喫茶は庶民の間まで広まっていたが、正式な茶会では高価な中国製の道具「唐物」(特に愛称の付けられた道具を「名物」と呼んだ)が用いられていた。このように高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の中国陶磁器(代表としては《珠光青磁》が挙げられる)などの粗末な道具を使用したし、武野紹鴎は信楽や備前を好んだ。これが通常わび茶の始まりとされるが、このように様式としてのわび茶とは、唐物を尊ぶ既成の価値観への反抗を母体として発生したといえる。
珠光のあと「弟子の宗珠、武野紹鴎らがわび茶を発展させ、千利休がこれを完成させた」と考えられている。ただし、珠光を含めこれら4名は、本人による記述がほとんど残っておらず、多くが伝承であり、その茶の本質を知るのは困難である。唯一利休については多くの弟子や子孫が書き残した伝書があるため概要を知ることが出来る。
千利休はわび茶をさらに発展させ、国産の道具を用いるだけでなく自身で器具を積極的にデザインし、職人につくらせた。利休の時代には、利休が作らせた楽茶碗は、唐物である天目茶碗と違って粗末な道具であった。さらに渡来のものであっても高麗茶碗や呂宋壺など当地では雑器に過ぎないものを茶器として使用している。また、自身でも竹を切っただけの簡易な道具を作って用いた。こうした利休道具は模様などの装飾を一切排し、職人の洗練された技術とプロポーションに美を求めている。しかし、利休が最後まで「名物」にこだわった事実も見逃してはならない。利休は唐物の名物を避けたわけではない、唐物に限らず日常雑器の中にも茶器として美しいものはあると示したに過ぎない。「侘び茶」の語に惑わされてこうした懐の深い利休の美意識を見誤ってはなるまい。唐物であろうと朝鮮産であろうともはたまた国産であろうとも、いいものはいいものであり、官窯であろうと民窯であろうとも、美しいものは美しいのである。
茶室の概念(茶の湯座敷、数奇屋)は既にあったが、千利休はこれも発展させ、二畳という極端に狭く、茶を立てて飲む、茶だけのために設計された茶室を作った。壁は土壁、窓には下地窓を採用、竹材を多用し、屋根は草葺の草庵である。利休はここでも侘びの境地を追求したのである。しかし実は、利休がもっとも使用したのは四畳半の茶室である。利休の茶室の本質があたかも二畳の小間にあるように語られるが、それは利休の一面でしかない。「侘び茶」という言葉が、ここでも利休の「侘び伝説」に大きく影響してしている。
実際に利休の茶をさらに進め現在の「わび茶」というイメージにもっとも近いものに創り上げたのは、利休の孫、千宗旦である。「乞食宗旦」と渾名された彼は侘び茶を徹底的に追求したため、それに反発するように金森宗和や小堀遠州はいくぶん華やかで伸びやかな茶を追求することになる。珠光以来利休までの先人は、一つの選択肢として「わび」を提示したにすぎない。対して宗旦は「わび」を唯一のテーゼとして追求したのである
わび茶とは、利休が提示した反装飾的・禁欲主義的な茶の湯を、追従者が様式化させたものであると見ることも出来る。そしてその追従者とは、おそらくは千宗旦であり、「わび茶」の語も彼を巡って唱えられたものとの仮説も成り立つであろう。
[編集] 現在のわび茶
本来は高価な唐物名物を用いた茶の湯への反抗であり、楽茶碗や竹製の花生、量産の漆塗り茶入である棗といった安価な道具を用いるものであったが、江戸時代に家元の権威化を背景に、箱書や伝来、命銘などによってこれらの道具も名物へと転化してしまった。また近代以降は大寄せの茶会の普及によって、本来草体である小間の格式が上がってしまい、真体である唐銅の花生や唐物茶入を好んで小間に用いるという逆転現象も発生している。このため現在の茶道は、わび茶とは乖離して、「高価な道具を用いた格式の高い茶の湯」であるという認識が一般的となっている。