お菊
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お菊(おきく、文禄4年7月2日(1595年8月7日) - 元和元年6月6日(1615年7月1日))は、豊臣秀次の娘。
お菊の母は淡輪徹斎隆重の娘の小督局だった。しかし、母の小督局は文禄4年(1595年)8月2日に他の38人の豊臣秀次の妻達と共に、31歳で京都の三条河原で処刑されてしまった。しかし、お菊はまだ生後一ヶ月であり、しかも女子であることから助命され、お菊の祖父の弟の子供である後藤興義に預けられた。
やがてお菊は成人し、元和元年(1615年)の4月20日、紀伊国の代官である山口喜内安弘の嫡男、兵内紀朝安の元に嫁いだ。しかし、その年に大坂夏の陣が起こり、淡輪家・後藤家・山口家は豊臣方に味方する。お菊の夫の朝安はわずか結婚5日目にして大坂城に入った。やがて山口の城は敵軍に囲まれ、援軍を求めるため、お菊は舅の安弘の命令により、密書を持ち農夫の姿になり敵軍の包囲を脱出し、風吹峠から尾根伝いに北へ向かい、信達山中で男装に変え、大阪城に入って使命を果たした。しかし、その帰り、樫井川で敵方に返書を奪われてしまった。
一方、この戦いで大阪方は敗れ、お菊の養父の後藤興義・叔父の淡輪重政達は、樫井川の合戦で4月29日に討ち死にしてしまう。お菊の夫の朝安も、5月7日に討ち死にし、5月8日には大阪城も落城した。その後、お菊は後藤家に身を隠したが、敵の浅野方に捕らえられ、同年の6月6日に紀伊南の河原で処刑された。まだ20歳だった。養母の静は薄幸なお菊を哀れみ、後藤家の菩提寺である法福寺にお菊の木像を納め、冥福を祈ったという。
怪談に出てくるお菊については皿屋敷を参照のこと。