スター誕生!

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スター誕生!-たんじょう!)は、1971年10月3日 - 1983年9月25日の間、日本テレビで放送されていた歌合戦形式の正統派のオーディション番組。略称スタ誕-たん)。番組のタイトル命名はチーフプロデューサー・池田文雄。

目次

[編集] 放送時間

放送日時は、日曜11:00~11:55

1982年4月4日以降は、放送時間が「NNN昼のニュース」の時間繰り上げに伴い11:00~11:45に短縮された。ただし、一部地域では放送日時が異なっていた。

[編集] 歴代司会者

  • 初代:萩本欽一-1971年10月3日~1980年4月6日
  • 2代:谷隼人(当時は岩谷隆広という芸名だった)・タモリ-1980年4月13日~1981年4月5日
  • 3代:坂本九石野真子- 1981年4月12日~1982年1月3日(石野は一時芸能界を引退したため1981年9月6日放送分で降板)
  • 4代:横山やすし西川きよし-1982年1月10日~1983年9月25日(当初はきよしが単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から登場)

[編集] 審査員

[編集] そのほかの出演者

[編集] 芸能史における位置付け

この番組でデビューのきっかけを掴んだタレントの活躍は芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロダクションサンミュージック田辺エージェンシーが力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの『スター誕生!』だった。これに対抗して渡辺プロは1973年より独自にオーディション番組『あなたならOK』をNET(現・テレビ朝日)で放映開始。ところが『あなたならOK』を放映していた月曜日の夜8時の時間帯は日本テレビが放送する『紅白歌のベストテン』を放送しており、これに渡辺プロの歌手も出演していたために、テレビの芸能史上に残る日本テレビと渡辺プロの間での戦争が起こったのである。『あなたならOK』は失敗に終わり、長寿番組となった『スター誕生!』からは、山口百恵、桜田淳子、森昌子の中三トリオに代表されるように低年齢のタレントが輩出。1970年代から1980年代にかけて素人っぽさを売りとするアイドル歌手全盛の時代を迎える。これが、譜面が読め歌唱力もある教育された大人のタレントを多く揃えた渡辺プロを脅かしたのだった。

[編集] 予選会

出場希望のはがきが殺到したため、毎週約500~1000人に絞り、東京都内の読売会館百貨店そごう有楽町店が入っていたビル。現在はビックカメラ有楽町店が入っている)7、8階のよみうりホールで予選会を行っていた(地方で公開録画がある場合は、放送している系列局で)。このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。
応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のアコーディオン(場合によってはピアノ)の伴奏で歌う。
一次審査は、応募者は四小節までしか歌えない。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったら、ブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査ではさらに30人に絞られていく。当然ながら一次と二次の失格者はその場で“お帰り”となった。
最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビに出演できる(本選進出者)14人(時期により変動がある。詳しくは本選と審査方法の欄を参照)が決定する。

[編集] 本選と審査方法

司会者の変遷により異なっていた。

[編集] 萩本欽一~谷隼人&タモリ時代

本選、つまりテレビに出演できるのは1回7人(組)まで(両代とも後期は5人に縮小された=予選会の二次→最終審査は20人→10人)。

スタンドマイクの前に立って1コーラス歌い、審査を受ける。
結果発表のとき、出場者の頭上に4桁の電光掲示板がある(舞台の左手。下段が1~4番で上段が5~7番だが、野外での収録や5人のときは並列になっていた)。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。規定の250点(萩本時代の5人時は300点)に達すれば合格(満点は1000点=会場500点+プロ500点(プロの持ち点は各自100点))。
最初は会場から手元のスイッチで“投票”する(ボード上の数字は(初期は豆電球)で回転している。まれに会場の段階で合格することもある(このとき、数字はに変わり、外周の赤い豆電球が時計回りに回転。目の前のパトライトが回転して合格を知らせる))。続いて、プロの点数が加算される(数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球とパトライトはそのままで、数字は赤で回転する。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字が赤に。パトライトが回転)。
合格の際、得点ボードが赤く付き、パトライトが回転した瞬間、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!!」と大絶叫をする(まさに、スポーツ中継の実況アナウンサーや、クイズ番組の司会者のようなものである)。 谷&タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた(舞台の中央左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示を出していた)。
合格者は、日本テレビ音楽学院の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、ブレザーコートが羽織られる。最後はバンザイをして締めくくる。
全員失格だった場合、萩本時代は「バンザ~イ、無しよ!」とおどけたポーズをとって締めくくった。これも萩本のあたりギャグにもなった。

[編集] 坂本九時代

本選は1回8人まで(予選会の二次→最終審査は30人→16人)。

二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する(持ち点は各自1点)。点数の高い4人か5人がパート2へ。
パート2はハンドマイクで1コーラス歌い、プロの審査を受ける(歌う曲目はパート1と異なる)。
結果発表の時、舞台に巨大な電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。持ち点は1人60点が基準で(クリアすれば赤い豆電球が回転)、5人の合計が300点に達すれば合格(豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転)。当然、坂本も「○点、おめでとう!!」と大絶叫をする。
中森明菜はこのとき(本選3回目の挑戦だった)に合格(点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田トシ:63、中村泰士:99(本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした)。合計392点)。 合格者にはトロフィーが授与された(初めてトロフィーが登場する<但し、決戦大会の時はもともとから出している>)。 なお同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。
なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロのタレントであり、彼を司会に起用したことについて日テレがナベプロとの和解を模索したと評されている。EDでは坂本の名曲「上を向いて歩こう」を坂本が歌っていた。

[編集] 西川きよし時代

本選は一人1曲歌い、審査方法は挑戦者に一人ずつ10個の電光ランプ(星の形)が8個以上になると合格となり、決戦大会に進出となる。決戦大会の審査方法が違うので、決戦大会の欄を参照。

[編集] 横山やすし・西川きよし時代

ルールが大幅に変更され、勝ち抜き制となり、一人1曲歌い、即座に審査結果が発表され、合格点をクリアすると次の週に進める。そして、7週連続勝ち抜くと

グランドチャンピオン(この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出てくる。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者のの中からは「最優秀賞」と表現していた)となり、天井から花吹雪が降る。これは同じネット局のYTV全日本歌謡選手権」のルールとほぼいっしょだった。また、この回から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。

[編集] 決戦大会

1クール(3ヶ月)に1回、合格者が7、8人~10人くらいたまったところで行う。通常通り1コーラス歌い、審査員がコメントする。この時点で優勝者が決定すれば問題ないのだが、ここでは審査員の手を離れ、観客席に集まった芸能事務所、レコード会社のスカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかける。

スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを掲げる(特に萩本時代、なかなかスカウトされない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよ~!」というセリフもよく出た)。規定では、たったの1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留扱い、または失格となる。もちろん、決戦大会進出者の中にも1社から指名されず、失格となって去っていく人もいた。この方法は、よく言えばドラフト会議、悪く言えば人買いであり、実際に人買い批判もされたが、チーフプロデューサーの池田文雄は、「あれは素人に芸能界の厳しさを教えたかったから」と、インタビューで語っている。

12年間の最高指名社数は、桜田淳子に対して過去最高記録の34社山口百恵新沼謙治に対して20社(ただし山口はグランドチャンピオンにはならず)。桜田淳子・山口百恵の決戦大会出場時の映像は現存していない(桜田の秋田県予選大会出場=フィルム録画=は存在)。

西川きよし時代では、番組の最後で決勝進出者に対して「合格」または「失格」と書かれている紙を入れた封筒が渡され、挑戦者が結果を見て「合格」(「受かりました」と言う)ならば天井から花吹雪(このあたりから、花吹雪を始めた)が降り、「失格」ならばそのまま退場となる。この方式でスカウトされているのは、松本明子以降である。

[編集] その他のコーナー

出場者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全出場者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた(特に萩本司会時代が有名で、「欽ちゃんコーナー」と呼ばれていた。)。このコーナーから、斉藤清六、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクした。
また、不定期的だが、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲のタイトルと歌手名のオブジェを ステージのセット(また、客席に小ステージを設けることもあった)として使い、新人歌手を大々的にアピールしていた。

[編集] 公開録画と収録場所について

原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録していた。後楽園ホールがほかの興行(主にプロレスやプロボクシングなど、格闘技の試合が多かった)やメンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。
また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。

[編集] 共通点

「全日本歌謡選手権」、同じ日本テレビ「お笑いスター誕生!!」(兄弟番組のようなもの)と共にまさに実力勝負が要求される正統派のオーディション番組であるために、猛烈な審査の厳しさ、審査員の辛口批評、そして、合格の瞬間、レコード大賞のように大号泣する挑戦者も当然多い。

[編集] 主な合格者

(合格した時期が早い順番から)

[編集] 決戦大会で失格となった有名人

[編集] 放映ネット局

[編集] 補足

[編集] スポンサー

これらのスポンサーは「クローズアップNOW」「クイズ!!ラブラブジャンプ」「鉄矢と熊のひたすら日曜日」まで続いた。

[編集] 関連項目

[編集] 番組の移り変わり

日本テレビ 日曜11:00~12:00
(1971年10月~1982年3月)
前番組 スター誕生! 次番組
11:00-?
11:15-ペアでハワイへ歌のチャンピオン
11:00-スター誕生!
11:45-NNN昼のニュース
日本テレビ
(1982年4月~1983年9月) 日曜11:00~11:45
前番組 スター誕生! 次番組
スター誕生!
(11:00~12:00)
クローズアップNOW