甲斐常治
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甲斐 常治(かい じょうち、生年不詳 - 長禄3年8月12日(1459年9月8日))は室町時代中期の武将である。
常治は落飾後の法名で、本名は「甲斐 将久」(ゆきひさ)である。永享年間に「常治」と名乗る。官途は美濃守。父は甲斐将教、子は甲斐敏光。近江守の官途を持つ弟がいる(実名不詳)。
応永27年(1420年)から、斯波義淳、同義郷、同千代徳(義健)、同義敏、同松王丸(義良)の五代にわたって斯波氏執事、越前・遠江守護代を務めた。
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[編集] 甲斐氏略歴
甲斐氏は、元々下野国の住人であったと思われるが、室町幕府が成立した際、越前などの守護である斯波氏の執事として入京する。
祖父教光は、斯波氏執事として徐々に頭角を現し、娘を斯波義重(義教)に嫁がせて斯波義郷を生ませて更にその立場を強固なものとした。また、父将教は、越前・尾張・遠江の守護代となり、その後、甲斐氏が、越前・遠江の守護代を世襲するようになる(尾張守護代は、才覚のある将教が地ならしをした後、織田氏に引き継がれ、同氏が守護代職を世襲するようになった)。なお、一般的に守護が京にあり、守護代が領国に派遣されるというイメージがあるものの、守護や守護代は在京しており(特に畿内やその周辺国)、その下の小守護代・又代を領国に置くのが通常であった(もちろん、守護在京の原則の適用がない遠国では、守護自身が領国にいるなど、例外はいくらでもある)。
[編集] 人物
斯波氏では幼少の当主が続いたため、その実権は「被官人等評定」に移り、常治は、その評定において、斯波氏執事としての立場から、事実上、斯波氏を取り仕切っていた。
しかし、常治は、傲慢な振る舞いをしていたらしく、当主である斯波義淳を評して「管領の器にあらず」などと公言していた。
そのため、斯波氏一族である大野持種や、二宮氏・島田氏などの他の被官人は、当主をないがしろにする常治の専横に業を煮やし、京にある常治の私邸を放火したり、討伐計画を企てたりするなど(討伐計画自体は吉良氏の仲介により未遂となる)、常治と対立することとなる。
[編集] 斯波義敏との対立
享徳元年(1452年)、斯波義健がわずか18歳で亡くなると、斯波氏の正統が絶えたため、甲斐氏・織田氏・朝倉氏の斯波氏重臣は、斯波氏庶流の大野持種子息・斯波義敏を斯波氏当主として迎えるが、上記のとおり、そもそも常治と大野持種が犬猿の仲であったため、常治が義敏と対立するのにそう時間はかからなかった。
長禄2年、常治が病気になると、義敏はこの機をとらえて挙兵し、守護斯波義敏VS守護代甲斐常治の長禄合戦が勃発した。ただ、義敏本人は幕府から関東出兵を命ぜられて近江国小野に滞在しており、また、常治も京の病床にあったため、越前での合戦は、守護側の堀江利真と守護代側の朝倉孝景・甲斐敏光による代理戦争の様相を呈していた。
当初、守護側は、猛将堀江利真の活躍により優勢であったが、長禄3年になると、将軍足利義政は、常治に肩入れするようになり、さらに、義敏本人が関東出兵の命令に背いて甲斐方の金ヶ崎城を攻めて大敗すると、これに激怒して義敏から家督を奪って周防に追放し、その子息松王丸がわずか3歳で斯波氏の当主となった。
幕府の常治寄りの姿勢や朝倉孝景の活躍もあって、長禄3年8月11日、長禄合戦は守護代側の勝利となるが、常治本人は、その知らせを聞かぬまま、翌12日夜、京で死亡した。享年は不明。
この長禄合戦を通じて、朝倉孝景が台頭する。