岡豊城
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所在地 | 高知県南国市岡豊町八幡 |
別名 | なし |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 長宗我部氏 |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 長宗我部国親 |
主な城主 | 長宗我部氏 |
廃城年 | 1591年 |
遺構 | 石垣、土塁、空堀 |
岡豊城(おこうじょう)は日本の城。戦国時代、四国の覇者となった長宗我部氏の居城。
目次 |
[編集] 概要
岡豊城は南国市街地の北西、国道32号の西側の丘陵に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
城の縄張りは最高所に本の丸があり、東に二の段、西に三の段、四の段が配された連郭式の山城である。
[編集] 沿革
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住した。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われる。香美郡にも同じ宗我部氏があり、それぞれの郡名の一字を名乗り長宗我部氏と香宗我部氏が成立した。
室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)土佐守護大名細川氏の本家である管領・細川政元が暗殺され、同時に土佐守護の権力も失墜し戦乱の時代が始まった。長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七守護」と呼ばれる有力国人が台頭した。永正6年(1509年)本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により岡豊城は落城、当主の長宗我部兼序は自刃した。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子、国親は一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入った。これを足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。
その子、元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし、同年、豊臣秀吉の侵攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸に新城を築いて移住したため、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
昭和30年(1960年)2月15日、高知県史跡に指定された。昭和60年(1985年)より平成2年(1990年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。