リッキー・スティムボート
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リッキー・スティムボート(Ricky Steamboat)のリングネームでの活躍で最も知られるリチャード・ブラッド(Richard Blood、1953年2月28日 - )は、アメリカの元プロレスラー。身長180cm、体重110㎏。父親がポーランド系英国人、母親が日本人という血統。ニックネームはブルース・リーのイメージからザ・ドラゴン。日本では「南海の黒豹」のキャッチコピーが付けられ全日本プロレスで活躍し、人気を獲得した。
出身地はフロリダ州タンパ、ハワイ州ホノルルなどギミックとの兼ね合いで複数発表されている(全日本プロレス中継では「母国日本」と紹介されたこともある)。出生地はニューヨーク州ウェストポイント。
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[編集] 経歴
少年時代を過ごしたフロリダではアマチュアレスリングで活躍。バーン・ガニアのレスリングキャンプ参加後1976年AWAでプロレスデビュー。顔が似ていたハワイ出身の名レスラー、サミー・スティムボートの「甥」に変身して改名。デビュー後ほどなくしてNWAミッドアトランティック地区に移籍し、生涯のライバルとなるリック・フレアー、ジミー・スヌーカ等との抗争を繰り広げた。1980年に初来日し、その後は日本の常連外国人としても活躍。入場テーマ曲にはYMOの名曲「ライディーン」が使われていた。ミル・マスカラスらと名勝負を演じ、端正な顔立ちで人気を得た。
1985年にWWF(現WWE)に移籍、ザ・ドラゴンのニックネームを与えられる。ジェイク・ロバーツ、ドン・ムラコ、ランディ・サベージらと抗争を繰り広げた。1987年3月29日のレッスルマニアⅢでランディ・サベージを下し、IC王座を獲得。この試合はプロレス史に残る名勝負として名高い。スティムボートの大ファンだったクリス・ジェリコはこの時の試合を見てプロレスラーを志すようになったと語っている。
1988年にWWEを脱退後、一旦引退が発表されたが翌1989年にフレアーと対戦するために復帰。同年2月20日、シカゴでリック・フレアーを破り第73代NWA世界ヘビー級王者となる。NWA世界王者として全日本プロレスへも来日を果たし、2代目タイガーマスク(三沢光晴)相手に防衛戦を行い勝利している。同年5月7日前王者に破れて王座転落。
1991年からWCWに参戦したが、1994年にスティーブ・オースチンとの抗争中に足を負傷。この怪我が原因となって同年レスラーを引退した。
プロレスラー引退後はプロモーターとしてプロレス界に関わり、TNA、ROHのプロモーターを経て2005年からWWEの興行同行エージェントとして活動している。
[編集] 得意技
- ダイビング・ボディアタック
- サイクロン・ホイップ
- チョップ
[編集] タイトル履歴
- NWA
- NWA世界ヘビー級王座 : 1回
- WWF
- IC王座 : 1回
[編集] その他
そのレスリングスタイルは多くのレスラーから評価されており、ジョン・シーナは雑誌への寄稿で、過去のベストレスラー20人のうちの第4位に挙げ、バティスタも全盛期に戦ってみたいレスラーであるとインタビューで述べている。
自他ともに認めるリック・フレアー最大の好敵手。フレアーも彼については「最も手の合った相手。眼を瞑っていてもお互いの動きが分かった」「最高のベビーフェイスだ。最高のレスラーはヒールの自分だけどね」などと発言しており、若手時代からベテランになるまで数多くの名勝負を残している(フレアーによれば「3000回は戦った」らしい)。
[編集] 関連項目
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