B-32 (爆撃機)
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B-32は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空隊が運用した爆撃機。コンヴェア社が開発した。愛称はドミネーター(Dominator)。B-29と同じく、超長距離爆撃機計画によって開発が開始されたが、開発の遅延とB-29の開発成功により、大量生産はなされず115機の生産に終わった。
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[編集] 概要
1939年11月に、ヨーロッパでの戦争の開始を受けて、アメリカ陸軍は超長距離爆撃機計画(Very long range)を開始した。これは、2万ポンドの爆弾を搭載し、8,500km以上の航続距離を持つ爆撃機の開発計画であった。1940年1月に航空メーカー各社に仕様が示され、コンヴェア社はこれに応募、B-32として案が採用された。試作機2機の発注は、1940年9月6日に行われ、初飛行は1942年9月7日である。
4発のレシプロエンジンを持つ大型爆撃機であり、主翼は直線翼・高翼配置である。エンジンはB-29と同じライト R-3350-23である。胴体断面は与圧装置の検討もあり、円形をしている。防御機銃として12.7mm連装機関銃が5ヶ所に装備された。試作機XB-32は垂直尾翼はB-24と似た形状の双垂直尾翼が当初は装備されていたが、後に単垂直尾翼に変更された。
初飛行以後は試作初号機の墜落や与圧装置の不良、垂直尾翼の改修などが重なり、開発は遅延した。1943年3月17日には量産型B-32と無武装練習機型TB-32合わせて300機の発注がなされ、1944年には追加で1,500機の発注がなされた。与圧装置が不良のため、与圧装置なしで量産を行うこととなり、1944年9月に量産初号機が完成したが、すでにB-29が実戦配備されていたこと、与圧装置がないことにより高高度爆撃ができないことにより、ほとんどの生産はキャンセルされることとなった。結局、生産されたのは試作機XB-32が3機、B-32が75機、TB-32が40機である。
1945年春から太平洋戦線に配備され、フィリピンや台湾の爆撃を行った。
[編集] WWII 最後の空戦
日本がポツダム宣言受諾後の1945年8月18日に米軍占領下の沖縄の基地より、同機2機が日本本土の偵察のために関東上空に飛来。その際、房総半島から伊豆諸島にかけての上空で日本軍機と第二次世界大戦最後の空戦を展開した。結果は同機の搭乗員1名が死亡、2名が負傷し、日本側に損害なし。ダメージを負った2機は沖縄へ退いた。(この戦闘での死者が米軍兵士の第二次大戦での最後の戦死者である)。 なお、この戦闘には坂井三郎も参加していた。
[編集] 要目
- 全長:25.32m
- 全幅:41.15m
- 全高:10.06m
- エンジン:ライトR-3350-23A (2,200馬力)4基
- 最高速度:575km/h
- 武装:12.7mm連装機銃5基、爆弾2,000ポンド
- 乗員:8名