龍造寺胤久
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龍造寺 胤久(りゅうぞうじ たねひさ、明応9年(1500年) - 天文8年(1539年))は戦国時代の武将。肥前の国人龍造寺氏(村中龍造寺氏)第17代当主。龍造寺家和の子。龍造寺胤栄の父。新次郎。民部大輔。
肥前の有力大名であった九州千葉氏の当主千葉胤勝(西千葉家)の一字を貰い受け、胤久と称す。
龍造寺宗家(村中家)の当主で、分家(水ヶ江家)の当主で一門の最長老・龍造寺家兼の補佐を受けたが、実権は家兼のもとにあり、傀儡に近い存在であった。千葉氏や少弐氏の影響下にあり、1530年の田手畷の戦いにも参戦したが、実際に活躍したのは家兼達であった。