黒田長溥
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黒田 長溥(くろだ ながひろ、1811年(文化8年) - 1887年(明治20年)3月7日)は、江戸時代末期の大名。筑前国福岡藩の第11代藩主。薩摩国薩摩藩主・島津重豪の九男。島津斉彬の大叔父。幼名は桃次郎。名は官兵衛。斉彬。官位は従二位。美濃守。
[編集] 経歴
1811年、島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の九男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いで、長溥もまた大柄であった。年の近い島津斉彬とは兄弟のような仲であったという。1822年、第10代藩主・黒田斉清の養嗣子となり、1834年に家督を継いで藩主に就任した。就任後は父の重豪に倣い、近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に精練所と反射炉を建設。次いで見込みのある藩士を積極的に出島に派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から、福岡で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。長溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては、様々な困難や妨害、当時の日本における石炭を使った産業の未発達などにより失敗した。1859年には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとった事もある。
長溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。1865年、藩内における過激な勤王志士を弾圧する。しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったゆえに様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、長溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にしていた。明治維新後の1869年に養嗣子・黒田長知に家督を譲り隠居。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を見出し長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、失敗というにはあまりにも無残な結果を悔やんだ長溥の神屋に対する最大限のお詫びとしての指名だったとも言われている。
1887年、77歳で死去。
[編集] 参考文献
- 岩井護「血は争えぬ蘭癖大名」『大江戸おもしろかなし大名たち』新人物往来社、1991年。
- 黒田氏(福岡藩11代)藩主
- 1834~1869
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- 先代:
- 黒田斉清
- 次代:
- 黒田長知