黄梅院
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黄梅院(おうばいいん、1543年(天文12年) - 1569年7月30日(永禄12年6月17日))は、武田信玄と正室三条の方の長女。北条氏政の正室。こうばいいんとも読む。
甲斐の生まれ。今川氏・武田氏・後北条氏の三国同盟のために、天文23年(1554年)12月、12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁ぐ。その輿入れ行列は、一万人ものお供の者が付き従い、大変豪華であったと伝えられている。また、信玄は彼女のために弘治3年(1557年)の11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、子煩悩であったことが覗える。
弘治元年(1555年)に男子(名前不明、夭折)、その翌年末に女子を産む。永禄5年(1562年)に、嫡男氏直を出産し、8年に氏房、その後直重、直定を産むなど夫婦仲は良好で、彼女の生涯は順調かと思われた。しかし、永禄11年(1568年12月13日、父の信玄の駿河進攻により三国同盟は破綻。これに激怒した氏康は武田と手を切り、氏政と黄梅院を離婚させ、甲斐に送り返した。その際氏政から堪忍分として16貫文余を与えられている。
幼い子供達と生木を裂くように別れさせられ、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家したとも言われる。そして永禄12年(1569年)6月17日、27歳の若さで死去した。
信玄は薄幸な長女のために、巨摩郡竜地に菩提寺黄梅院を建立し、葬った(墓碑現存)。それから信玄は、元亀元年(1570年)の12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行った。夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年(1571年)12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。
[編集] 参考文献
- 黒田基樹著 戦国北条一族 ISBN 4-404-03251-X C0021