高島部屋
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[編集] 来歴
現在の高島部屋の実質上の初代は、若松部屋を飛び出し、独力で部屋を築いた幕内八甲山純司である。1951年1月に死去するまで、小結巴潟誠一、関脇輝昇勝彦らを育て、死去の時には吉葉山は大関、三根山は関脇に昇進していた。
巴潟が部屋を継承し、吉葉山潤之輔を横綱に、三根山隆司を大関に育てた。吉葉山は1958年に引退し、宮城野部屋を創設し、三根山は1960年の引退後、熊ヶ谷部屋を興した。
1961年、停年制導入にともない、友綱親方が退職したので、娘婿だった巴潟は友綱の名跡を継承、部屋は友綱部屋に改称した。高島の名跡は三根山に譲られ、熊ヶ谷部屋は高島部屋に改称した。三根山は大関大受久晃や関脇高望山大造を育てた。
1982年9月場所後、三根山は体調を崩し、部屋運営を断念。高望山をはじめ力士等は巴潟とともに友綱部屋に所属した元幕内芳野嶺元志が創設した熊ヶ谷部屋に移籍した。(熊ヶ谷部屋は現在は立浪部屋に吸収されている)その後、1993年に当代師匠(関脇・高望山大造)が再興し、現在に至る。
[編集] 高島親方
[編集] 横綱・大関
- 吉葉山潤之輔(北海道)
- 三根山隆司(東京)
- 大受久晃 (北海道)
[編集] 幕内
[編集] 関脇
- 輝昇勝彦(北海道)
- 高望山大造(宮城)
[編集] 小結
- 巴潟誠一(北海道)
[編集] 熊ヶ谷部屋
熊ヶ谷部屋は、大正時代に友綱部屋の幕内敷島猪之助が襲名して部屋を継承した。そのとき、相続争いの関係で、関脇清瀬川敬之助が自分の弟子たちをつれて楯山部屋に寄寓し、のち伊勢ヶ濱部屋を興した。敷島の熊ヶ谷部屋は、幕内大熊宗清を育てたが、1956年に部屋を閉じ、弟子を荒磯部屋(照国の部屋)に預けた。その後、大関三根山が引退して熊ヶ谷を襲名してから、高島・友綱系統の年寄名として現在に至っている。芳野嶺の親方が停年退職してからは、元前頭の旭里憲治が一時襲名。2006年現在は宮城野親方だった竹葉山真邦が襲名している。