須恵器
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須恵器(すえき)とは日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器である。時期的には土師器と併用され、比較的高級な品として扱われた。当時の記録から、「陶器」と表記され「すえうつわもの」と読まれていたことがわかっている。しかし陶器(とうき)と混乱を避けるため、考古学用語としての須恵器が一般化している。
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[編集] 特徴
土師器までの土器が日本列島固有の特徴を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術を用いて製作された。それまでの土器が野焼きで作られていたため、焼成温度が低くならざるを得ず、肉厚が厚く表面の色は赤味を帯び、強度があまりなかった。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で焼成するため、肉厚が薄く表面は灰色がかっており、強度もあった。
須恵器の起源は朝鮮半島にあり、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本の土器だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
現在では、伊勢神宮などの神社などで使用されている。須恵器に使用される土は、埴輪土と呼ばれる
[編集] 歴史
[編集] 古墳時代
『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、紀元前1世紀頃、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記され、新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれない。しかし、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。
考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀後半以降である。日本で最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として、大阪府堺市南部、和泉市、岸和田市にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。そのうち、陶邑窯跡群は、伝天皇陵と考えられている百舌鳥古墳群の南側に分布していることから、ヤマト政権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになった。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられる。
須恵器の生産と保有は当時の有力者にとって、重要な事柄であり、各地の豪族が競って技術を導入するため朝鮮半島から工人を招き自らの支配地域にて須恵器の生産を行わせていたが、それらの生産は技術の継承が行われていなかったため、招聘した渡来人が死ぬと一代限りで途絶えてしまった。
古墳時代から出土する須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられた。
[編集] 奈良時代
奈良時代以降になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになった。国や郡の官衙での使用が柱にあったが、それだけに留まらず日常の器としても盛んに用いられるようになった。埼玉県鳩山町及びその周辺に分布する南比企窯跡群は、その代表例である。須恵器生産は蝦夷に対峙する城柵の設置にともなって東北地方に達した。
[編集] 平安時代
平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で一郡一窯の体制から一国一窯への収斂がみられ、産地の数が減る傾向がでてきた。地方統治における郡の役割の低下と、国の役割の向上が背景にあるとも言われる。しかし辺境域の東日本では逆に生産地拡散の傾向がみられ、関東地方では新規の窯が増えた。東北地方中部・南部でも奈良時代には少なかった須恵器が9世紀には盛んに製作された。それも9世紀末には衰退し、土師器系の土器にとってかわられる形で須恵器生産は10世紀に絶える。
拡散の最遠は、9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。