陳友諒
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陳友諒(ちんゆうりょう、1320年 - 1363年)は元末、各地に割拠した群雄の一人。湖北から江西にかけての一帯に勢力を誇り、大漢皇帝を称したが、朱元璋との鄱陽湖の戦いに敗れ、敗死した。
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[編集] 紅巾の乱と天完国
湖北眄陽の漁師の家に生まれた陳友諒は、読み書きができたことから県の胥吏をしていた。1350年(至正10年)に紅巾の乱に呼応して、湖北で徐寿輝が挙兵して天完国の皇帝を称すると、その麾下の武将倪文俊の書記となり、次第に武将としての頭角を顕して重用されるようになった。
[編集] 大漢皇帝を称す
紅巾軍の本体である韓林児の宋とは独立して行動し、天完国の皇帝を称していた徐寿輝は、長江中流域に勢力を拡大していった。陳友諒はその政権内部で、徐寿輝の謀殺を企てて失敗した上司の倪文俊を殺害して、麾下の部隊を指揮下に収める。そうして天完国の実権を一手に掌握すると、1360年(至正20年)には主の徐寿輝をも殺害して、自ら帝位についた。この際、国号を大漢に改め、年号を大義と定めた。
[編集] 朱元璋との抗争と鄱陽湖の戦い
大漢皇帝を称した陳友諒は、湖北から江西にかけての一帯を勢力に収め、長江下流の応天府(現在の南京)に拠る朱元璋、隆平府(現在の蘇州)に拠る張士誠と並び立った。その中でも東に勢力を接する朱元璋と激しい抗争を繰り広げた。1360年、陳友諒は朱元璋側の拠点である太平を攻め落とし応天府にせまった。しかし敵将の偽りの降伏を信じて応天府の攻撃を急ぎすぎ朱元璋軍の反撃を受けて敗北した。その後、朱元璋側に寝返る者が続出し長江沿岸の拠点を次々に失った。これを挽回するため1363年(至正23年)、数百隻の大船団を率いて鄱陽湖で朱元璋軍と決戦したが、火攻めをうけて水軍は壊滅し陳友諒自身も矢を受けて敗死した。ちなみに三国志演義における赤壁の戦いの話はこの戦いを大きく引用したと言われている。
[編集] 滅亡
鄱陽湖の戦いで陳友諒が敗死した後、その子陳理が跡を継いだが、翌1364年(至正24年)には朱元璋に降り、漢は滅亡した。
[編集] 貨幣
陳友諒が建てた「漢」が鋳造・発行した貨幣である「天定通宝」と「大義通宝」は、現在でも古銭収集家の間では人気がある。
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