阿部典史
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阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日)は、東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。エントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
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[編集] 来歴
父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPでケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。この時点で阿部はホンダ陣営(チームブルーフォックス)の所属だったが、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。
1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦中。
[編集] 戦歴
- 1988年 - 13歳でレースデビュー
- 1991年 - アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
- 1992年 - スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位
- 1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
- 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
- ロードレース世界選手権500ccデビュー
- 1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1996年 - WGP500ccランキング7位(日本GP優勝)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1998年 - WGP500ccランキング6位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1999年 - WGP500ccランキング6位(リオGP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2000年 - WGP500ccランキング8位(日本GP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2001年 - WGP500ccランキング7位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2002年 - MotoGPランキング6位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)
- 2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
- 2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
- 2006年 - スーパーバイク世界選手権参戦/ヤマハモーターフランス
[編集] 人物
スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。独特の前輪に荷重させたライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。
全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。ヘルメットからはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。現在は短髪だが、これは本人のセンスの変化によるもの。