長谷川如是閑
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長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年11月30日 - 1969年11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を中心に大正デモクラシーを推進した論客。本名は、万次郎。
東京府の深川扇町で、山本徳治郎・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、徳次郎の代からは材木商を営んでいた(徳次郎は後に浅草に花屋敷を開業)。1884年、曾祖父長谷川多美の養子となり改姓。兄は、東京朝日新聞社記者であった山本笑月。
共立学校に一時期在籍し、日本中学を経て、1898年に東京法学院(中央大学の前身)を卒業。
1908年大阪朝日新聞社に入社、1912年頃からは天声人語を担当している。白虹事件を期に退社、大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊する。東京帝大助教授であった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された事件(森戸事件)においては、学問研究の自由・大学の自治を主張して擁護の論陣を張る。
個々人の「生活事実」を思考の立脚点として、政治・経済における現象を捉えることで、本来は庶民の生活維持のために作り出された諸制度が、歴史の過程で自己目的化するさまを鋭く批判した。英国流のリベラルで国民主義的な言論活動を繰り広げる。職人および職人の世界を誰よりも深く愛した。
主著に、『日本的性格』『現代国家批判』『現代社会批判』『真実はかく佯る』『搦め手から』『凡愚列伝』『倫敦! 倫敦?』『ある心の自叙伝』など。 友人丸山幹治の息子でもあった丸山眞男や辰野隆等に大きな影響を与える。
[編集] 関連項目
- 戦争絶滅受合法案