赤松良子
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赤松 良子(あかまつ りょうこ、昭和4年(1929年)8月24日~ )は、昭和、平成期の日本の官僚、政治家。労働省婦人局長時代、男女雇用機会均等法制定の中核となった。細川護熙、羽田孜両内閣で文部大臣を務めた。
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[編集] 生い立ち
昭和4年(1929年)8月24日大阪市天王寺区に赤松麟作、浅香夫妻の二女として生まれる。父赤松麟作は、黒田清輝に師事し、関西西洋画壇の大家となった人物。弟子に佐伯祐三らがいる。赤松夫妻は二人とも再婚で、麟作は先妻との間に五男一女がいた。良子がうまれたとき麟作51歳、浅香40歳と高齢出産であったため、出産は当時としては珍しく大阪赤十字病院で行われた。麟作は良子を溺愛し、昭和9年(1934年)に「良子」という作品を描いている。昭和11年(1936年)大阪市天王寺第五尋常小学校に入学する。昭和17年(1942年)大阪府立夕陽丘高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)に入学する。終戦の混乱の中、昭和21年(1946年)高等女学校を卒業し、神戸女学院専門学校に入学するが肺門浸潤で休学(のち退学)を余儀なくされた。英語が好きであった赤松は、昭和22年(1947年)上京し津田塾専門学校英語学科(旧制)に入学する。昭和25年(1950年)3月津田塾大学英文学科(新制)を卒業し、同年4月東京大学法学部政治学科に入学する。昭和28年(1953年)東京大学法学部を卒業する。
[編集] 労働省時代
東大在学中、国家公務員6級試験に合格し、労働省に入省する。婦人少年局婦人課 に配属される。11月に花見忠(後、上智大学教授)と結婚する。愛娘の自立を見届けたかのように父麟作が死去。
赤松が配属された婦人少年局には、局長の藤田たき(津田塾教授)を始め、課長田中寿美子(後、参議院議員)、高橋展子(デンマーク大使)、森山真弓(環境庁長官、内閣官房長官、文相、法相)ら錚々たる顔ぶれがそろっていた。
出産、育児に加え、仕事でもなかなか男性キャリアと比較して昇進が無いなど雌伏の時を過ごす。昭和33年(1958年)入省5年目にして埼玉労働基準局に転任する。昭和35年(1960年)本省に戻り職業安定局労働市場調査課勤務。昭和38年(1963年)国際連合フェローシップ試験に合格し渡米する。帰国後、婦人少年局婦人労働課課長補佐となる。昭和41年(1966年)青杉優子の筆名で住友セメント事件に関する論文を発表する。
昭和43年(1968年)群馬労働基準局労災課長を経て、本省婦人労働課長補佐、婦人課長、婦人労働課長を歴任する。婦人労働課長時代、勤労婦人福祉法立案に際し、育児休業制度を盛り込む。昭和50年(1975年)女性で初めて山梨労働基準局長に就任する。
昭和54年(1979年)国連日本政府代表部公使に任命される。国連公使として女子差別撤廃条約に賛成の投票を行う。同条約に署名したことで日本は国内法整備が課題となった。昭和57年(1982年)労働省婦人少年局長に就任し、男女雇用機会均等法の立案に当たる。翌昭和58年(1983年)労働省の組織改編に伴い、初代婦人局長に就任する。昭和60年(1985年)男女雇用機会均等法が制定される。
昭和61年(1986年)駐ウルグアイ大使に任命される。昭和63年(1989年)に帰国し、女性職業財団会長、国際女性の地位教会会長、文京女子大学教授などの職を務める。
[編集] 文部大臣
平成5年(1993年)細川内閣の文部大臣に就任する。非自民連立政権にあって文教行政に関して、非政治性、非宗教性が強く求められたことや女性、民間人の積極登用の目的で赤松に白羽の矢が立った。文相に就任した早々、高校野球における丸刈りの強制に反対した他、公務員の結婚後の通称使用、教科書検定の公開、国立大学施設費の予算増額などを検討した。平成6年(1994年)細川内閣が総辞職し、次の羽田内閣にも留任した。就任後の記者会見では質問に対し貫禄に充ちた受け答えであったが、羽田内閣は2ヶ月で総辞職を余儀なくされ、赤松も文相を辞任した。
国際女性の地位協会10周年を記念して、「赤松良子賞」が設けられた。