能登半島沖不審船事件
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能登半島沖不審船事件(のとはんとうおきふしんせんじけん)とは、1999年(平成11)3月23日に発生した、海上自衛隊及び海上保安庁による不審船追跡事件である。
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[編集] 事件の推移
[編集] 自衛隊の怪電波傍受
1999年3月22日、日本海の能登半島東方沖の海上から、不審な電波発信が続けられているのを美保通信所が傍受、15時海上自衛隊舞鶴基地から護衛艦「はるな」(第3護衛隊群旗艦)、「みょうこう」(第3護衛隊群所属)、「あぶくま」(舞鶴地方隊所属)が出港した。法的根拠は、防衛庁設置法に基づく「調査・研究」とした。
[編集] 不審漁船の発見
海上自衛隊八戸航空基地から飛び立って上空を捜索していたP-3C哨戒機が、翌3月23日6時42分佐渡島西方18キロの日本領海内に「第一大西丸」と記された船を発見、9時25分能登半島東方64キロに「第二大和丸」と記された船を発見した。漁船にしてはアンテナが多い、甲板上に漁具が見えない、煙突の横から排煙が出る、船名表記が簡単な手書き、船尾に旗章を掲揚していない、新潟沖なのにHG(兵庫県)で始まる漁船登録番号、船尾の観音開き扉等の不審点があったことから、これらの船名を漁協に問い合わせたところ、第一大西丸は既に廃船、本物の第二大和丸は兵庫県沖で操業中である事が判明し、海上自衛隊によって追跡が始まった。また、航空自衛隊が情報収集のため、三沢基地所属のE-2C早期警戒機を海域上空に派遣した。
[編集] 不審船の追跡
11時に護衛艦も「第二大和丸」を確認し、能登寄りの「第二大和丸」を護衛艦「みょうこう」が追跡を開始、海上保安庁のPLH型巡視船「ちくぜん」(門司海上保安部所属)とPC型巡視艇「はまゆき」(七尾海上保安部所属)がこれに合流した。一方、佐渡寄りの「第一大西丸」は護衛艦「はるな」が追跡を開始、海保のPM型巡視船「さど」(新潟海上保安部所属)、PC型巡視艇「なおづき」(上越海上保安署所属)がこれに合流した。さらに両方の中間を護衛艦「あぶくま」が追いかけた。11時30分に海上保安庁新潟航空基地を飛び立ったS-76Cヘリコプター「らいちょう1号」は、不審船を写真撮影するとともに船舶電話を使って呼びかけ(朝鮮語、英語、日本語による)を行ったが、不審船からは何の反応もなかった。海上保安庁では、特殊警備隊(SST)を大阪からヘリで「ちくぜん」に搬送し、待機させた。日没前には「はるな」艦載ヘリが不審船を撮影し、航空自衛隊小松基地に着陸して防衛庁へ画像を電送。これが初めての画像電送装置の実戦使用になった。
[編集] 威嚇射撃
追跡は夜まで及んだが不審船は停船せず、挑発するように逃走を続けた。18時10分には首相官邸別館にある危機管理センターに官邸対策室「不審船に関する関係省庁局長等会議」が設置された。19時になると不審船は24ノットに増速、19時30分には28ノットとなったため、PC型の「はまゆき」「なおづき」が引き離され始めた。その報告を受けると、川崎二郎運輸大臣は威嚇射撃を許可し、第九管区海上保安本部(新潟)に通知した。20時過ぎ、第九管区海上保安本部長が警察官職務執行法に基づく威嚇射撃を指示、「みょうこう」から照らされたサーチライトが光る中、「ちくぜん」が「第二大和丸」に向かって20mm機関砲で50発発砲、1953年のラズエズノイ号事件以来となる警告射撃を行った。「第一大西丸」にも「はまゆき」が20mm機関砲で計135発、「なおづき」が64式小銃で1,050発もの威嚇射撃を行った。
不審船は威嚇射撃に反応したためか、35ノットに増速して逃走。この速度に海上保安庁の巡視船艇は付いて行けず、燃料不足にもなったため「はまゆき」「なおづき」「さど」が続々と脱落、特に「第一大西丸」は護衛艦「はるな」のみの追跡となった。官邸対策室ではこれを受けて海上警備行動発令へと傾いたが、対東アジア慎重派である野中広務内閣官房長官が政治的判断から発令しないよう官邸に指示、官邸も一旦は追跡打ち切りの方向へと向かっていた。
[編集] 謎の停船
ところが、「第一大西丸」は、一時的に追手との距離が開いたために、日本側が追跡を断念したと見たのか、23時47分に何故か突然停止。その報告を受けて野呂田芳成防衛庁長官は海上警備行動の発令を決断した。手続きとして、翌3月24日0時30分に川崎運輸大臣より野呂田防衛庁長官に「海上保安庁の能力を超えている」との連絡があり、0時45分に持ち回り閣議が開かれて海上警備行動を承認、0時50分、自衛隊法82条に基づく初の海上警備行動が野呂田防衛庁長官から海上自衛隊に発令された。
[編集] 初の海上警備行動
第3護衛隊群司令に現場指揮が命令され、第2航空群に爆弾投下命令が出された。各護衛艦は、海上自衛隊発足以来初のROE(交戦規定)となる野呂田防衛庁長官名の命令書「部隊の取るべき措置標準」を受け取り、2隻に対して76mm速射砲で25回35発の警告射撃を開始。上空から八戸のP-3C3機が、巨大な水しぶきにより水の壁を作り、水の力で不審船を停船させるため、150キロ対潜爆弾12発を投下する警告爆撃を行った。しかし、航空自衛隊には警備行動への参加が発令されず、P-3Cと監視中だったE-2Cは護衛の戦闘機無しで不審船上空を飛びまわった。そのため、爆弾を搭載したP-3Cが現場に到着すると、不審船からの地対空ミサイルによる攻撃を防ぐため、現場判断で、爆弾投下を行うP-3Cと不審船の間に、監視目的で飛行していた無防備のP-3C僚機が割り込み、命懸けで盾となる飛行を行うなどの混乱が起きた。上空には海上自衛隊岩国航空基地所属のEP-3電子戦機と在日米海軍のP-3CとEP-3も飛来していた。
防空識別圏が近づくと、ロシア政府から不審船追跡におけるロシア側海域通過の許可が下り、ロシア側による不審船追跡が開始され、ロシア側からも停船命令が発せられた。護衛艦内では工作船に立ち入り検査を行うため艦長命令により「検査隊」が編成された。しかし、その時護衛艦にボディアーマー(防弾チョッキ)は積まれていなかった(この事件の後、臨検を任務とする特殊部隊「特別警備隊(SBU)」と、護衛艦ごとに「立入検査隊」(立検隊)が編成された)。また、はるな第1分隊が、網(体験航海時の転落防止ネット、緑色)を海面に漂わせてスクリューに絡ませようとしたが、回避され失敗した。
[編集] 逃走
不審船はその後も高速で逃走し、3時20分に「第二大和丸」が、6時6分に「第一大西丸」が防空識別圏を越えたため追跡を断念した。7時55分に、E-2Cが北朝鮮の羅津からのMiG-21戦闘機2機の出撃を確認。このため、通常のスクランブル任務として小松基地からF-15J戦闘機2機が出撃した。そうした緊迫の中、朝日新聞社のヘリコプターが飛来し、護衛艦乗員のひんしゅくを買う。艦では対空戦闘の準備中だった。
2隻はロシア側海域を逃走していたが、途中から南西方向へ転進し、両船の位置が入れ替わった。25日の朝7時ごろに北朝鮮の清津に入港した模様である。ロシア側の責任者は後日「この不審船が、もしもロシア領海に侵入していれば、即座に撃沈するつもりだった」と語っている。
[編集] 事件の影響
この事件で、外国の偽装船が日本の領域で暗躍していることが、一般にも知られるようになった。この事は、前年(1998年)のテポドン事件と合わせ、日本の世論に大きな影響を与えている。また、自衛隊に初めて実戦命令(海上警備行動)が下されたという点で、重要な事件である。 追跡の際、本来原潜追跡能力を持つ護衛艦と海上保安庁の巡視艇の機動力の差が歴然として、これにより海上保安庁の船舶の機関の増力が図られることになった。[1]