美幸線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
美幸線(びこうせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道上川支庁管内の中川郡美深町の美深駅で宗谷本線から分岐し、同町内の仁宇布(にうぷ)駅までを結んでいたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。
線名は予定線の起終点から採られており、「美」は起点の美深、「幸」は終点の北見枝幸(枝幸郡枝幸町)で、興浜線と接続する予定であった。
警報機のある踏み切りは宗谷本線と共用以外のところではたった1箇所(道道)のみであった。
なお、一部の廃線跡は美深町のNPO法人トロッコ王国美深によって、1998年からエンジン付きの保線用軌道自転車の運転体験ができるトロッコ王国に転用され、人気を博している。
目次 |
[編集] 路線データ
- 区間(営業キロ):美深~仁宇布(21.2km)
- 未成区間の仁宇布~北見枝幸間は57.5km
- 駅数:4駅(起終点駅含む、未成区間7駅除く)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
- 閉塞方式:タブレット閉塞式(全線1閉塞)
[編集] 歴史
北海道北部開発の拠点であった枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された鉄道路線で、1953年に鉄道敷設法別表第144号の2「天塩国美深ヨリ北見国枝幸ニ至ル鉄道」として追加された。枝幸へは興浜北線が浜頓別で天北線に接続、予定線の興浜線が雄武で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川、札幌に出るには遠回りとなることから長年にわたって請願が続けられていたものである。
なお美深~仁宇布間には1935年より殖民軌道の美深町営軌道があったが、美幸線開通に先立ち1962年に廃止された。
1964年に第1期線である美深~仁宇布間が部分開業し、以遠も日本鉄道建設公団によって建設が進められた。予定線が計画された歌登町(現・枝幸町)内では同町が経営し、天北線中頓別町小頓別に通じていた歌登町営軌道が美幸線建設促進のため1970年に廃止されるなどして、1976年に全線開通予定であったが、1979年に完成間近で工事は凍結され、結局開業することができなかった。なお、未完成の一部区間である第二大曲トンネルは道道の「天の川トンネル」として転用されている。また、未完成区間であるうちの約7キロメートルは観光用の鉄道線として転用する計画もあがっている。また、北見大曲駅~興浜線北見音標駅間は支線として建設が予定されていたが、美幸線自体が廃止されたため北見大曲~北見音標間は計画だけに終わった。
なお、ほぼ路盤が完成していた北見枝幸~歌登を先行開業させるという話もあったが、興浜線や越美南線(現長良川鉄道)と越美北線のように、分断されたままになってしまうことを危惧した地元住民により、一括開業にこだわって開業は見送られた。
既開業区間自体も輸送量が極めて少なく、赤字路線(営業係数)のワーストワンを同じ北海道の深名線や白糠線、そして九州の添田線などと争う常連であった。1974年度の営業係数は3,859、すなわち100円の収入を得るのに3,859円の費用を要する状態であった。地元の美深町では「日本一の赤字ローカル線」を逆手に取ったPRを当時の長谷部秀見町長自ら東京銀座で行ったり、1981年に第1次特定地方交通線として指定された後も、同じく特定地方交通線となった興浜線と合わせて第三セクター化した「オホーツク縦貫鉄道構想」など、全線開業による存続を目指したが、コンサルタントによる収支見込みで黒字に転換する可能性はないとされ、結局断念された。
- 1964年10月5日 美幸線美深~仁宇布間(21.2km)開業(全通)
- 1981年9月18日 第1次特定地方交通線として廃止承認
- 1984年2月1日 貨物営業廃止
- 1985年9月17日 全線廃止、名士バスに転換
[編集] 駅一覧
美深駅 - 東美深駅 - 辺渓駅 - 仁宇布駅
以下は未成区間
- - 北見大曲駅 - 上徳志別駅 - 志美宇丹駅 - 辺毛内駅 - 歌登駅 - 下幌別駅 - (南枝幸信号場) - 北見枝幸駅
[編集] 接続路線
- 美深駅:宗谷本線