紫式部日記
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紫式部日記(むらさきしきぶにっき)は紫式部によって記された日記とされる。
写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載ははなく、いつから「紫式部日記」とされたかは不明。
全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。源氏物語の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。
[編集] 内容構成
寛弘7年(1010年)に完成されたとするのが通説である。中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から同7年正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、歴史的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、宮中の同僚であった和泉式部・赤染衛門、ライバル清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。
和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には当然後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば稚拙なところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」等と、徹底的に扱き下ろしている所が面白い。自らが中宮彰子に仕え、清少納言がその競敵たる中宮定子に仕えていたことなどの事情もあるが、清少納言に対してだけ(感情が入っているのかと思われるほどに)全面的に否定している所を見ると、後世では共に代表的な平安女流文化人として並び称される間柄で、清少納言に対して強い競争意識を持っていたことが窺い知れる、興味深い記述である。
13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。
なお、『栄華物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。