福地源一郎
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福地 源一郎(ふくち げんいちろう、1841年5月13日(天保12年3月23日) - 1906年1月4日)は、幕末期の幕臣、明治時代のジャーナリスト、作家。幼名は八十吉。号は桜痴。櫻癡とも書く。
1841年、長崎で医師福地苟庵の息子として誕生した。長崎で蘭学を学び、1857年に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学んだ。そして、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなる。1861年、1865年には幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界の視察を行なっている。
しかし源一郎は、蘭学修行や渡欧経験などから幕府の鎖国体制には反対の開国論者であったが、尊王にも反対する佐幕派であった。
そのため大政奉還後の1868年、「江湖新聞」を発行して次のように論述した。「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に変わっただけではないか。ただ、幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べている。これが、新政府側の怒りを買うことになり、新聞は発禁処分、源一郎は逮捕されてしまった。ちなみにこれは、明治時代初の言論弾圧である。木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。
1870年、大蔵省に入り、翌年岩倉使節団の一員として各国を訪れている。
帰国後の1874年、政府系の東京日日新聞に入社し(主筆、のち社長)、ジャーナリストとして大いに筆名が上がった。1882年、丸山作楽・水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した。
1888年には経営不振から東京日日新聞社を退社となった。代わって福地が執念を燃やしたのが演劇改良とそれを実践する劇場の経営である。1889年11月には千葉勝五郎とともに、東京の木挽町に歌舞伎座を開設した。福地は活歴物や舞踊などの脚本を多数執筆し、名優九代目市川團十郎らがこれを演じた。代表作は「大森彦七」・「侠客春雨傘」・「鏡獅子」など。1903年、市川團十郎が死去すると、舞台から手を引き、1904年衆議院に立候補し、当選。
1906年、64歳で死去。
[編集] 著作
源一郎の文化面における功績は大きく、多くの著作を残している。福沢諭吉と並んで「天下の双福」と称された。
- 幕府衰亡論(1883年)
- 懐往事談(1895年)
- 幕末政治家(1900年)