石川清兼
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石川 清兼(いしかわ きよかね、生没年不明)は、戦国時代の武将。三河国碧海郡小川(愛知県安城市)に拠った石川氏の一族で、西三河に勢力をのばした松平氏の家臣、左近大夫「忠輔」の子、助十郎。安芸守を称した。当時の発給文書には忠成の名が記されている。妻は水野忠政の娘「妙春尼」。
松平清康に仕え、その死後は広忠に近侍した。天文11年12月(1543年1月)徳川家康誕生の際には「蟇目の役」を務めたとされる(「寛政譜」新訂3巻2項)。同18年の天野孫七郎宛知行書、24年の大工跡職安堵状、弘治3年(1557年)の浄妙寺宛て道場安堵書などから、この間松平家の重臣として、西三河における政務を取仕切る立場にあったと考えられている(「新編岡崎市史」20巻27項)。また「岡崎領主古記」(注)によると、清兼(忠成)は天文年間中の「五奉行」のひとりであったという(「同市史」2巻711項)。
また、天文18年、三河本證寺(野寺本證寺)の住職の後継として「あい松」なる人物を支持する旨の、門徒連判状の筆頭にその署名があり、一向宗門徒の総代的立場にあったことがわかる。また清兼を含めて、連署された115名の内33名が「石川」(もしくは「石河」)姓であることから、彼が西三河における石川氏の惣領として存在していたと考えられる(前掲「岡崎市史」2巻741、742項。および20巻27項)。
現存する弘治3年(1557年)の安堵書が、清兼の存在を確認できる最後のもので、これ以降の彼の消息は不明である。三男家成の生年(天文3・1534年)から考えると、仮に生存していたとすれば、三河一向一揆(永禄5・1562年)の際にはすでに家督を譲っていたと考えられる。
子は長男石川康正(子は石川数正)、次男伝太郎「一政」(天文18・1549年、三河小川にて38才で戦死。子は伝次郎「一勝」)、三男石川家成(母は水野忠政の娘)、「安藤杢助基能の妻」、「平岩金次郎某の妻」、酒井正親の室、「伊奈市左衛門某の妻」。