石川忠総
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石川 忠総(いしかわ ただふさ、1582年(天正10年) - 1651年2月14日(慶安3年12月24日))は江戸時代前期の大名。美濃大垣藩の第3代藩主。
実父は大久保忠隣(忠総は次男)。母は石川家成の娘。 徳川秀忠より名前の一字を拝領し、「忠総」を名のる。従四位下、主殿頭。
慶長3年(1598年)から徳川家康の小姓頭となって仕え、関ヶ原の戦いでは下野小山に在陣した。同年冬、家成の養子となる。慶長12年(1607年)、外祖父の石川家成の嗣子であった石川康通が家成より先に死去した。康通には子がいたが、幼少のために家成がやむなく家督を再び継いだ。そしてその家成も慶長14年(1609年)に死去した。しかし家成の嫡孫はまだ幼少であったため、家康の命で忠総が家督を継いだのである。しかし慶長19年(1614年)、大久保長安事件で父・忠隣が改易されると、連座により忠総も駿河で蟄居を命じられた。しかし大坂冬の陣が起こるとその罪を許されて従軍し、功を挙げた。翌年の大坂夏の陣においても戦功を挙げている。元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で豊後日田藩へ加増移封された。元和6年(1620年)の大坂城修築でも功を挙げている。そして肥後の加藤忠広が改易されると、その後の処理を取り仕切っている。
寛永10年(1633年)6月7日、下総佐倉藩へ加増移封。翌年には近江膳所藩へ移封された。慶安3年(1650年)12月24日、69歳で死去。
忠隣の子ということもあるが、彼自身才能に優れ、功績も多かったため、家康や徳川秀忠から大いに信任を受けた。家康は病床にあるとき、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。