百田義浩
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百田 義浩(ももた よしひろ、1946年3月15日-2000年11月22日)は、日本のプロレスラーで、元全日本プロレス所属のリング・アナウンサー兼取締役、元プロレスリング・ノア取締役。
京都府伏見区出身。日本プロレス界の父・力道山の長男であり、現プロレスリング・ノア副社長の百田光雄の実兄。
[編集] 経歴
慶応義塾大学法学部卒業。父の意志を継ぎ「リキ・ボクシングジム」のオーナーとして藤猛を育てた。その後、1972年に全日本プロレスの旗揚げに参加。以降、取締役兼リングアナウンサーを務めた。
しかし、1975年に日本武道館で行われた「力道山十三回忌特別興行」にて、遺族席の百田に対しアブドーラ・ザ・ブッチャーが暴行を加え、流血する事件が起こる。この時「ファンに(力道山の長男なのに)だらしない息子と思われたのではないだろうか」と考え、リングアナの座を原軍治に譲りアメリカへレスラー修行に出る。帰国後の1980年、弟である光雄との初兄弟タッグでプロレスラーに転向。以降、前座選手ではあったが、1987年まで現役を続けた。
引退後はリングアナには戻らず、取締役に専念。全日のフロントとしてジャンボ鶴田黄金期や四天王プロレス時代を支えたことから、昭和プロレス界の重鎮と呼ばれた。
2000年に起こった三沢光晴らの全日大量離脱→NOAH旗揚げの一連の動き(全取締役がオーナー馬場元子へ辞表を提出)にも弟・光雄共々参加。6月に株式会社プロレスリング・ノアが設立され、全日時代と同じく取締役ポストとして、会社を影から支えるはずだったが、旗揚げ興行後の9月に体調を崩し、入院。闘病生活を続けたが、肝不全で11月22日に死去。葬儀はNOAHの社葬も兼ねて行われたが、馬場元子も弔問に訪れた。父・力道山も眠る池上本門寺に納骨されている。
彼の動きにより、百田家が関わっているプロレス団体は日本プロレス→全日本プロレス→NOAHへと変わっている。その点でも、大きな影響を与えている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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