浜田彦蔵
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浜田彦蔵(はまだひこぞう、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は、幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)。幼名は彦太郎。
播磨国加古郡阿閇村古宮(現兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。幼い頃に父を、嘉永4年(1851年)、13歳の時に母を亡くす。その直後に義父の船に乗って海に出て、途中で知人の船・栄力丸に乗り換えて江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月12日)に南鳥島付近でアメリカの商船オークランド号に発見され、救助される。
その後、救助してくれた船員たちと共にサンフランシスコに滞在。アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出て、嘉永5年3月13日(1852年5月1日)にサンフランシスコを出発し、5月20日(7月7日)に香港に到着する。そこから、東インド艦隊長官ペリーの船に同乗し、日本へ帰還するはずだった。しかし、ペリーがなかなか来ず、その間に香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民の一人)の体験談を聞き、自分達がアメリカの外交カードにされるとの懸念から、10月にアメリカに戻る。
サンフランシスコに帰った後は、下宿屋の下働きなどをしていたが、税関長のサンダースに引き取られた。その後、ニューヨークに赴き、嘉永6年8月13日(1853年9月15日)には日本人として初めてアメリカ大統領(当時はフランクリン・ピアース)と会見した。また、サンダースにより、ボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。安政4年11月25日(1858年1月9日)にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。
そして安政5年(1858年)、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り、日本への望郷の念が強まった彦蔵は、キリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。その翌年の安政6年(1859年に駐日公使ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し、9年ぶりの帰国を果たした。
翌年2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。しかし当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じて文久元年9月17日(1861年10月20日)にアメリカに戻った。
再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり、茶の輸出、精米所経営などを行なった。明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅で死去。享年61。死後、青山の外国人墓地に葬られた。
[編集] 著書
- 漂流記(文久3年・1863年)
- 漂流異譚 開国之滴(明治26年・1893年、土方久徴訳)
[編集] 関連項目
[編集] 石碑・銅像
- 本邦民間新聞創始者 ジョセフ・ヒコ氏居址碑(昭和10年・1935年建立、兵庫県神戸市)
- 新聞の父浜田彦蔵の碑(昭和35年・1960年建立、兵庫県播磨町立播磨小学校)
- 浜田彦蔵生誕の地の碑(昭和49年・1974年建立、兵庫県播磨町浜田海岸)
- 浜田彦蔵の胸像(昭和55年・1980年建立、兵庫県播磨町中央公民館)
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