流 (博多)
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流(ながれ)とは、天正15年(1587年)豊臣秀吉の「博多太閤町割り」によって誕生した町の集合体の呼称であり、博多の総鎮守櫛田神社に奉納される博多祇園山笠を執り行う単位である。
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[編集] 流の成り立ち
町割りはまず中心となる一小路(市小路)を南北に定め、東に東町筋、西に西町筋、土居町筋、東西に横町筋、魚町筋と定められた。
この際、筋毎に町の集合体である流を組織した。南北縦筋に東町流、市小路流(呉服町流)、西町流、土居町流(土居流)、東西横筋に石堂流(恵比須流)、魚町流(福神流)、最も福岡側寄りの博多川沿いに、洲崎町流(大黒流)を配した。
毎年これら七流のうち六流が博多祇園山笠の山笠当番を務め、一流が能当番を務めた。又、博多どんたくの前進(中核)である博多松囃子では、福神流、恵比須流、大黒流が三福神の当番を務め、他の四流が交代で稚児流の当番を務めた。
その後、町の発展と共に、厨子流(櫛田流)、新町流(後に、岡新町流→岡流...現在の祇園町一帯、濱新町流→濱流...現在の大博町、神屋町一帯に二分)、築港流、沖浜流と拡大していった。
[編集] 戦後の体制
大戦末期の福岡大空襲によって博多の町は焦土と化し、戦後になり道路もつけ変わったが、旧町を引き継ぎ、流も存続することが出来た。
戦後は流本来の意義は大幅に薄れ、山笠、松囃子の当番のための流となった感がある。しかし一方、博多祇園山笠振興期成会(博多祇園山笠振興会の前身)が結成され、山笠振興のため広く門戸を開放したため、旧博多の外から中洲流(中島町を除く中洲全域)、千代流(千代校区全域)、一丁目流(南流)等が山笠に参加するため流を組織し、今日の山笠の隆盛に大いに貢献することとなった。
- 呉服町流:東長寺前町、東長寺前新道、上小山町、下小山町、上呉服町、下呉服町、上市小路、中市小路、下市小路、廿屋町(にじゅうやまち)萱堂町、奥小路
- 東町流:御供所町、金屋小路、北船町、上東町、下東町、上浜口町、中浜口町、下浜口町、鏡町
- 大黒流:東下新川端町、下新川端町、寿通、麹屋町、川端町、上鰮町、下鰮町、上洲崎町、下洲崎町、上対馬小路、中対馬小路、下対馬小路、下対馬小路大下、掛町、橋口町
- 西町流:万行寺前町、竹若町、箔屋町、上西町、下西町、蔵本町、奈良屋町、古渓町、芥屋町、釜屋町
- 恵比須流:蓮池町、官内町、上竪町、中竪町、下竪町、下金屋町、横町(下金屋町横町)、上金屋町、中石堂町、中間町、綱場町
- 土居流:上新川端町、大乗寺前町、川口町、中土居町、片土居町、上土居町、下土居町、行町、濱小路、西方寺前町
- 福神流:西門町、中小路町、上魚町、中魚町、下魚町、上店屋町、下店屋町、古小路町
- 築港流:千歳町、冷泉町、石城町、海岸通、西浜町、幾夜町、恵比須町、北浜町
- 濱流:大浜町、小金町、柳町
- 櫛田流:今熊町、櫛田前町、上厨子町、下厨子町、上奥堂町、中奥堂町、下奥堂町、上赤間町、下赤間町、上桶屋町、下桶屋町、寺中町、上普賢堂町、下普賢堂町
- 岡流:瓦町、社家町、下祇園町、上祇園町、矢倉門、馬場新町、上辻堂町、下辻堂町、出来町、停車場町
[編集] 全流の消滅と再編
町割り以来の流は昭和41年の町名町界改変まで存続していたが、これを機に全ての流が消滅した。この混乱を乗り越えるため、一旦消滅させた流を即日再編した。
呉服町流は大半が大博通りとなり流運営も苦しく、この際東西に分離し、東側は東町流と合流し東流、西側は西町流と合流し西流となった。
土居流は、土居町をはじめとする大半の町が消滅したため、存続が困難視されたが、有志によって土居流保存会が結成され、引き続き山笠の当番を務めた。土居町筋沿いの旧町体制を維持し、流が復活することなり今日に至っている。
[編集] 現在の流
現在では、土居流、大黒流、東流、中洲流、西流、千代流、恵比須流、福神流の8つの流があり、福神流を除く七流が山笠当番を務める。
- 土居流:上川端町、冷泉町、下川端町、綱場町、古門戸町、奈良屋町
- 大黒流:上川端町、下川端町、須崎町、古門戸町、対馬小路
- 東流:御供所町、上呉服町、中呉服町、下呉服町
- 中洲流:中洲一丁目、中洲二丁目、中洲三丁目、中洲四丁目、中洲五丁目
- 西流:冷泉町、店屋町、綱場町、奈良屋町
- 千代流:旧千代町一帯、千代小学校区全体
- 恵比須流:上呉服町、中呉服町、下呉服町、綱場町
- 福神流:店屋町、上呉服町
上記は、現町名であり山笠運営の町名(旧町名)とは異なる。
恵比須流、大黒流、福神流は松囃子三福神の当番を務めており、同じく松囃子の稚児流の当番を東流と西流がそれぞれ二年交代で当番を務めている。
[編集] 入軒(いりけん)
旧体制では、町界が背割り方式のため、町の本通筋から横筋へ数軒町が入り込んでいた。これを「入軒」と呼ぶ。山笠の流舁を行う際、山笠をこの「入軒」まで入れては引き返していた。流が再編されたときに完全にブロック方式に変えなかったため、減ってはしまったが、この習慣が今も残されている。