河野通春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河野 通春(こうの みちはる、応永28年(1421年)? - 文明14年閏7月14日(1482年8月28日))は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。河野通元の子。官位は伊予守。
伊予の武将で、河野宗家と対抗した予州家の当主。当初は細川氏の支持を受け、嘉吉の乱後、幕府からの命令を引き出して本家の河野教通を討とうとするが、教通には吉川氏や小早川氏の援軍があったため、うまく進まなかった。1464年にはこのような伊予の混乱を見た細川勝元の軍勢が攻め込んで来たため、通春は危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも子の大内政弘の援助を受けた。
1467年からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に、東軍についた本家の教通が伊予の守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。乱後に伊予に帰国し1478年にも教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。その後も教通と抗争を繰り返しながら、1482年閏7月14日に湊山で死去した。