池田徳潤
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池田 徳潤(いけだ のります)は、江戸時代の大名。播磨福本藩の第3代(最後)の藩主。
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時代 | 江戸時代末期(幕末)から昭和時代 | |||
生誕 | 弘化4年11月11日(1847年12月18日) | |||
死没 | 昭和4年(1929年)5月13日 | |||
別名 | 政太郎(幼名)、池田嘉延(別名) | |||
官位 | 正五位、但馬守、男爵 | |||
藩 | 播磨福本藩主 | |||
氏族 | 池田氏 | |||
父母 | 父:池田喜通 | |||
妻 | 正室:田辺央立の養女・貞子 | |||
子 | 2男3女 |
1847年11月11日、交代寄合6000石の池田喜通の子として江戸で生まれる。1868年に池田氏は福本藩主となるが、直後に父・喜通が死去したため、徳潤が後を継いで藩主となった。1869年6月17日、版籍奉還により藩知事となるが、1870年11月23日、廃藩となり、その領地は鳥取藩に合併されることとなった。
1884年7月、男爵となるが、財政破産などで男爵としての体面を維持できなくなり、1894年に爵位を返還している。晩年は福本で過ごし、1929年5月13日に死去した。享年83。墓所:兵庫県神崎郡神河町福本の徹心寺。