毛利秀包
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毛利 秀包(もうり ひでかね、永禄10年(1567年) - 慶長6年3月22日(1601年4月24日)は、毛利元就の9男。幼名は才菊丸。通称は藤四郎。妻は大友宗麟の娘・桂姫(洗礼名「マセンシア」)。
1571年に備後に所領を与えられるが、同年5月に備後国の大田英綱が死去し、その遺臣に懇願され、大田氏の後継となり、“大田才菊丸”と名乗った。そして1579年に母の乃美氏が小早川氏の関係であるという縁もあり、兄の小早川隆景の養子となり、元服して後は小早川元総を名乗る。 しかし人質として大坂の豊臣秀吉の下に送られた際に「秀」の字を賜り、秀包と改名する。人質でありながらも、その行動は制限されたものではなく、1584年の小牧・長久手の戦いにも秀吉に従い出陣している。1585年に河内国で10,000石、ついで四国征伐の時に金子元春の守る伊予国金子城を攻略し、後に伊予宇和郡大津城で35,000石を与えられた。
1586年から始まる九州征伐では養父・隆景に従い豊前香春嶽城を攻略し、戦後に隆景が筑前・筑後を領すると、筑後国3郡75,000石を領した。1587年には久留米城を築き、居城とした。
そして肥後国人一揆討伐の総大将として出陣し、和仁親實ら兄弟が籠城した田中城を攻撃し、立花宗茂と共に城を落城させる戦功を挙げ、また義兄弟の契りを結んだ。この2人は1589年に侍従に叙任されて、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった。
久留米を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、受洗。洗礼名を「シマオ(Simao)」とした。そしてキリシタン大名としての活動が目立つようになる。1591年には高良山座主・麟圭父子を誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人も居たと言われる。
1592年から始まる文禄の役では、1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵。全羅道攻略の際、大鼓城の攻城でも戦功を挙げた。碧蹄館の戦いでは隆景、立花宗茂と共に朝鮮軍を撃破している。その戦功により筑後久留米75,000石に、55,000石を加増され130,000石となり、筑後守に叙任された。
1594年、秀吉の養子であった木下秀俊(のち小早川秀秋)が隆景の養子となったため秀包は廃嫡されることになったが、この際、秀包は別家して久留米を治める一大名として取り立てられている。
1597年から始まる慶長の役でも渡海し、大いに手柄を立てた。
1600年の関ヶ原の戦いでは不戦敗を喫し、苦心して作り上げた領国の久留米を改易され、毛利輝元より長門国に所領を与えられる。その頃毛利姓に復姓。しかし、心労がたたったのか剃髪した後に体調が悪化し、翌1601年に35歳の若さにて病没。遺体は当時の秀包の知行地で、館があったと伝えられる現在の山口県下関市豊北町滝部に安置される。
息子の毛利元鎮は吉敷毛利家の始祖となった。
[編集] 人物
毛利一族の中では目立たない人物であるが、隆景が彼を養子としたのは、秀包が父の毛利元就の武勇を兄・元春と並び最も受け継いでいた為だと言われている。秀包はその期待を裏切る事なく、毛利氏の一族として朝鮮に渡り、抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍した。小早川隆景の朝鮮での活躍には、この秀包が大いに貢献しているのである。