根室拓殖鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
根室拓殖鉄道(ねむろたくしょくてつどう)は、北海道東部の根室市の根室駅(国鉄/JRの根室駅とは別地点)から根室半島南岸に沿って歯舞村(はぼまいむら 根室市に1959年合併)の歯舞駅までを結んでいた軽便鉄道路線、およびそれを経営していた鉄道会社。日本国内において史上最東端を走った鉄道でもある。
道路事情の劣悪な歯舞・根室間を連絡する目的で建設されたが、立地条件の非常な不利さから終始経営難が続いた。廃線後バス会社に転換したが、ほどなく根室交通に合併された。
目次 |
[編集] 歴史
- 1929年10月16日 根室拓殖軌道根室~婦羅理間開業。
- 1929年12月27日 婦羅理~歯舞間延長。
- 1932年8月25日 ガソリン動力併用認可。実際には前年から無許可で気動車を運行。
- 1934年11月18日 軌道法による軌道から地方鉄道法による地方鉄道に変更。
- 1945年4月1日 根室拓殖鉄道に社名変更。
- 1959年6月20日 鉄道全線廃止。
- 1961年7月1日 根室交通に合併。
[編集] 路線
[編集] 路線データ
- 営業区間:根室~歯舞
- 路線距離(営業キロ):15.5km
- 駅数:5
- 軌間:762mm
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
- 動力:蒸気・内燃
- 閉塞方式:票券閉塞式(実際の運行は各駅間の電話連絡のみで行っていた)
[編集] 運行概要
- 運行本数:1日あたり旅客3往復(1934年11月改正時)・日4往復(1956年9月)
- 所要時間:全線60分
軌道整備の悪さや地盤の悪さ、そして積雪等により、列車の脱線が頻発していた。列車が途中で脱線すると、運転士は数時間がかりで駅まで往復して復旧作業を行ったという。
[編集] 駅一覧
根室駅 - 友知駅 - 沖根婦駅 - 婦羅理駅 - 歯舞駅
[編集] 車両
[編集] 気動車
根室拓殖鉄道に導入された気動車は、開業時から廃線までの間にわずか3両に過ぎない。戦前に日本車輌東京支店製の旅客車1両が導入され、戦後、札幌市の田井自動車工業により、貨物車と旅客車各1両が製造された。いずれもガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」、かつ片側運転台で一方向のみ走行を基本とする「単端式気動車」であり、ターンテーブルでの転向を必要とした。いずれも極めつけの珍車揃いであった。
[編集] ジ6号→ジ3号「ちどり号」
1931年日本車輌製造(日車)東京支店製の半鋼製単端式気動車。当初は既存の客車の続き番号として「ジ6号」を名乗っていたようであるが、戦後導入した新車2両の続番「ジ3号」に改番された。「ちどり号」の愛称もこのとき付けられた。
1927年の井笠鉄道ジ1形以降、日車本店が1930年頃まで各地の私鉄向けに製造した小型の規格形単端式気動車の一つである。リベット留めの簡易な超軽量車体を持つ4輪車で、前方に突き出したボンネットを入れても全長僅かに6m、幅1.8m強という、現代の大型ワゴン車よりやや長いサイズしかない小型車だった。扉は運転台直後に折り戸1ヶ所、定員は21人に過ぎない。
ほとんどの日車単端式気動車が名古屋市熱田の日車本店工場で設計・製造されたのに対し、このジ6号は東京支店工場で作られた。名古屋本店で作っていた単端式気動車を東京支店でも試作してみることになり、設計図を利用して製作した見込み生産品であったようである――しかしこの初期単端車は、本店ではとうに製造中止した旧式モデルであった。東京支店でも1929年以降、既にもっと進歩した両運転台の独自設計気動車を作っていただけに、1931年になってからわざわざこれを取り上げた意図は不明である。
根室拓殖軌道は、この試作車を日車から格安価格で入手したが、試作車だけあっていろいろないわくが付いていた。例えば原設計図では、路面走行のある鉄道に販売することも想定して、併用軌道に必要な救助網が装備されていたが、根室向けの実車には付いていない。また本店製単端車はフォード・モデルTの20HPパワートレインを用いていたため左側運転台なのに対し、支店製の根室単端車はより年式の新しく強力なフォード・モデルAの40HPドライブトレーンを用い、右側運転台だった。
ガソリン動力併用の申請と車両導入の申請は行っていたものの、その許可が下りていない1931年中から監督官庁には無許可で運行を始めていたようである。通常は車両メーカーに委託する新車の設計認可手続きは費用節約目的で自社の手で行ったが、車幅が従来の自社規格をオーバーしていたため、怪しんだ監督官庁から照会を受ける羽目になり、これに対する回答・調整が遅れるなど手続きが錯綜。ガソリン動力併用認可が下りたのは大きく遅れ1932年8月25日となり、名目上の車両竣工届は同年12月1日となっている。当時の地方私鉄ではこの程度の脱法行為や混乱は珍しくなかった。
導入に当たっては、方向転換のために始終着駅にループ線を設置した(のち廃止、転車台を設置)。根室拓殖唯一のガソリンカーとして、旅客輸送のみならず貨車牽引にも用いられ、戦時中まで主力車として運行された。太平洋戦争末期には木炭ガス発生炉付の小型貨車を連結、ここからガス管でガス供給を受けて運転されたこともあったという。
戦後、エンジンの傷みが酷くなったため、新たに新車同様の日産A型6気筒エンジンに乗せ替え、ボンネットもフラットなラジエーターを備えた細身のフォード4気筒用から、幅広で前面グリルが剣道の面風な日産用に変更した。また車体や窓にも保全のための改造が施され、全体に戦前の華奢で軽快な外観が薄れて、武骨な印象を強めている。のち、逆転機搭載改造が行われ、後進でも前進並みの速度が出せるようになった(改造時期不明)。戦後製新車に互して廃線まで用いられた。
廃線後根室市立ゴヨウマイ小学校で遊具として使われた。1975年頃の写真ではボンネットや運転台が取り外され、客室部分の廃車体のみが残存している。その後朽ち果てたため撤去され現存しない。
[編集] キ1号「銀龍号」
1949年田井自動車工業製の単端式気動車。4輪単車で日産A型6気筒エンジン搭載。
応急改造の末に到達した、もはや言葉ではどうにも表現しようのないまでに想像を絶する奇妙奇天烈な姿と、「銀龍号」という勇ましいニックネームとの極端なミスマッチによって、後世の鉄道ファンにも一種の強烈な感銘を与え、廃線後の現代に至るまで根室拓殖鉄道の代名詞としてその名を長く語り伝えられる「伝説の迷車」である。
田井自動車工業は戦前からの歴史がある札幌市内の特装車架装・バスボディメーカーで、2006年時点でも現存する。鉄道との関わりは戦時中に木炭ガス発生炉を道内の私鉄・簡易軌道向けに供給したことから始まったと見られる。このため根室拓殖へ納入した車両も自動車色が濃かった。
キ1は、当初は貨物輸送を目的に製造され、キャブオーバー型トラック風のスタイルで、それなりにまともな形態であった。ところが、前後の重量バランスが悪かったために運転してみると脱線を頻発させ、入線から程なく改造工事が施された。
この改造内容は、運転台前方にシャーシを延長してボンネットを設置、重いエンジンを前方に移動させて重量バランスを改善するというもので、これによって脱線頻発は収まったが、にわか造りのボンネットに、これも間に合わせのような荒い格子状フロントグリルを組み合わせたことで、ひどく不格好なスタイルになってしまった。
更に時を置かずして、荷台を客室に改造して旅客車化する工事が行われた。この木造切妻構造・折り戸1ヶ所付のバラック風な「客室」は元々の運転台より一段高い屋根を持っており、デザインを統一するという発想は全く伺えない。更にこの木造客室の側面は、正面から見て右側は運転室と同一平面(ツライチ)であるが、左側は客室が若干突出していた。
こうして「銀龍号」は、「継ぎ足しの不格好なボンネット+リベット薄鋼板張りの運転台+木造の粗末な客室」という、もはやこの世の鉄道車両とも思われない摩訶不思議な外観を呈し、さながら鵺(ぬえ)のような体裁の怪気動車となった。
後期には屋上1灯だったヘッドライトを、ボンネット上2灯配置に変更。さらに動物的な正面形状となり、珍車ぶりをますます際だたせることになった。1959年の廃線まで運用されていた。
[編集] ジ2号「かもめ号」
1949年田井自動車工業製。4輪単車で日産A型6気筒エンジン搭載。「銀龍号」の姉妹車であるが、こちらは当初からキャブオーバー型バス状の形態を持った旅客用気動車として製造された。側面1ヶ所の扉を持ち、コンパクトにまとまった単端式気動車である。根室拓殖の気動車の中ではある意味、一番「まとも」な車両であった。
こちらは大きなバランス問題などは生じず、ヘッドライト位置変更などを除いては全体に製造当初のままで廃線まで用いられた。
カテゴリ: 鉄道関連のスタブ項目 | かつて存在した日本の鉄道事業者 | 廃線 | 北海道の鉄道路線