松田昌士
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松田昌士(まつだ まさたけ、1936年1月9日 - )は会社経営者で東日本旅客鉄道(JR東日本)社長、同社会長を歴任。北海道北見市出身。井手正敬、葛西敬之と共に「国鉄改革3人組」と称され、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に尽力した。
[編集] 来歴
- 1961年:北海道大学大学院法学研究科修了。国鉄に入社。
- 1985年:国鉄北海道総局総合企画部長。
- 1986年:国鉄再建実施推進本部事務局長。
- 1987年:JR東日本常務取締役
- 1990年:同社代表取締役副社長に就任。
- 1993年:同社代表取締役社長に就任。
- 2000年:同社代表取締役会長に就任。
- 2002年:道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任(~2003年)。
- 2005年:全日本アマチュア野球連盟会長に就任。
- 2006年:JR東日本代表取締役会長を辞し、取締役相談役に就任。
「国鉄改革3人組」の筆頭として、国鉄分割民営化に尽力した。民営化後は、JR東日本の社長・会長として経営を把握。道路関係四公団民営化に参画する等、当時の内閣総理大臣・小泉純一郎が主導した聖域なき構造改革路線において、民営化の代表的な成功例の立役者として活躍した。国鉄経理局時代の上司は吉田輝雄(元日本国有鉄道常務理事、元ホテル・エドモント社長)。
松田が国鉄~JR東日本の経営の実権を握る間、分割民営化の一つの契機とされる国鉄労働組合(国労)を潰そうと働きかけた。その結果、国労は民営化の過程において分裂し、少数組合に転落した。松田は国労に対して、「反対派はしゅん別し断固として排除する。等距離外交など考えてもいない。処分、注意、処分、注意をくりかえし、それでも直らない場合は、解雇する。」(1987年5月25日)と強硬路線を明言している。一方で、民営化に協力した組合とは協調路線を取った。JRは国労組合員を採用から意図的に排除したため、不服として各地の地方労働委員会で異議申し立てが行われた。地労委は申立てを認めたため、松田は1988年10月、協調派の全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)傘下、JR東労組の講演で、「今度は国労だけではなくて、地方労働委員会を相手に戦おうではありませんか」と言った。
国労の衰退後はJR総連が最大の組合となっていたが、JR内部の労働組合の離合集散は収まらず、JR総連と日本鉄道労働組合連合会(JR連合)の分立が発生した。
[編集] 著書
- 『なせばなる民営化JR東日本 自主自立の経営15年の軌跡』(生産性出版、2002年3月) ISBN 4820117246
[編集] 関連項目
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